馬加城(まくわり)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 大須賀胤信か
 遺構  : なし
 交通  : JR総武本線幕張駅または
      京成本線京成幕張駅徒歩15分


       <沿革>
           千葉常胤の四男胤信がこの地に移り住み、館を築いたのが始まりと伝わる。素加天王社
          の社伝によれば、胤信は短気な性格から父や兄らに疎まれていた次兄の胤盛に同情し、
          台地続きの武石郷を分け与えたとされる。
           胤信は源頼朝の覚えがめでたく、上総広常の旧領であった大須賀保(成田市東部から
          九十九里にかけて)を与えられ、大須賀氏を称した。居館も埴生郡へと移したとされるが、
          こちらの館の扱いについては詳らかでない。
           15世紀になり、千葉宗家14代当主満胤の次男康胤が、馬加村に住して馬加氏を称した。
          馬加城は康胤の居城とされるが、大須賀胤信の館があったとすれば、康胤は旧跡を取り
          立てたことになり、もしなかったならば、新規に築城したことになる。
           享徳三年(1455)に享徳の乱が発生すると、千葉家中は関東管領上杉氏を支持する
          当主千葉胤直および重臣の円城寺尚任と、古河公方足利成氏を支持する康胤および
          原胤房の2派に分裂した。同年三月、康胤と胤房は胤直・胤宣父子を急襲し、自害に追い
          込んだ。康胤は千葉氏の家督の簒奪に成功したが、まもなく幕府より同じく千葉一族で
          美濃国郡上郡篠脇城主東常縁が追討に派遣され、敗れて子の胤持とともに相次いで
          自害した。
           しかし千葉氏の家臣団は、常縁の擁した胤宣の甥にあたる実胤・自胤兄弟ではなく、
          康胤の庶子とされる輔胤を支持したため、本宗家の家督は輔胤が継いだ。輔胤の出自
          については、康胤の子ではないとする異説もある。千葉宗家については、康胤の系統が
          下克上を成したとされているが、馬加氏については、康胤・胤持父子の死によって断絶
          した。
           その後の馬加城の去就については定かでない。『日本城郭大系』によれば、天文年間
          (1532〜55)に千葉胤富が馬加の屋敷にしばらく滞在したと伝えられるとある。この屋敷
          を馬加城とするなら、城はこのころまでは存続していたことになる。


       <手記>
           応仁の乱に先立つ下克上の嚆矢として個人的に注目している馬加康胤ですが、その
          居城跡もまた、現代の建造物に押しつぶされてしまっています。現場は京葉道路の幕張
          PAの東向かいで、北半分は高速道路に、南半分は「幕張ハウス」という立派な天守閣、
          もといマンションとなっています。
           せめて碑や説明板などあれば救いなのですが、現地には城館跡を示すものは何もあり
          ません。遺構については、もともと不明瞭だったようです。南西麓から登る道の先が台地
          の頸部にあたり、康胤の時代的にみても、おそらく造作としてはここを掘り切っただけの
          城館だったのではないかと思われます。ただ、そうだったとしても、城内はかなりの面積
          があり、これを防ぐにはそれなりの人数が必要です。宗家の次男ということから、康胤が
          下克上を果たすだけの地力を有していたことがうかがえます。
           他方で、ここが大須賀胤信の館跡だったとする点については、懐疑的に感じています。
          同じ台地上に、件の武石胤盛の武石館がありますが、それと比べても、こちらは平安末
          の武士の居館としてはセオリーから外れているような気がします。

           
 馬加城址(幕張ハウス)を望む。
馬加城址の丘を麓より。 


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