権現山城(ごんげんやま)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 上田政盛か
 遺構  : なし
 交通  : 京浜急行線神奈川駅徒歩5分


       <沿革>
           観応三年(1352)、新田義宗・義興兄弟に鎌倉を攻められた足利尊氏は、逃れて武蔵国
          狩野川の城に立て籠もった。『新編武蔵国風土記稿』では、この狩野川の城は権現山に
          あったとしているが、確証はない。
           権現山城が史料に登場するのは、永正七年(1510)のいわゆる権現山の戦いにおいて
          である。ときの権現山城主であった相模守護代上田蔵人政盛は、北条早雲(伊勢宗瑞)と
          手を組んで上杉氏に叛旗を翻した。政盛は武州松山城を築いた西党上田氏の嫡流とされ
          るが、詳しい系譜は不明である。鎮圧に向かう上杉軍は早雲の援兵を退け、大軍をもって
          権現山城を包囲した。七月十一日から十九日にかけて、上杉勢は昼夜の別なく城を攻め
          立て、ついに落城させた。政盛は討ち死にしたとも、早雲を頼って落ち延びたともいわれ、
          これによって庶流とされる松山城主上田家が台頭することになった。
           その後、同戦いでは権現山城の支砦であった本覚寺山が、北条氏により青木城として
          取り立てられ、権現山城の名はみられなくなった。青木城の一郭として組み込まれたとも
          考えられるが、詳細は不明である。

       <手記>
           現在権現山は幸ヶ谷公園となっています。江戸時代末期に神奈川台場建設のための
          土取り場となっていたため、遺構はおろか地形がだいぶ変わっていると思われます。
           往時は、眼下に海が迫り、山と海の間に東海道神奈川宿が開かれていました。また、
          青木城との間にJRや京急線の線路が通っていますが、以前は峰続きで堀切が穿たれて
          いたということです。
           幸ヶ谷公園には多数の桜が植えられており、春にはかなりきれいに咲くのでしょう。

           
 青木城址から権現山城址を望む。
権現山の説明板。 
 権現山城址現況(幸ヶ谷公園)。


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