松前城(まさき)
 別称  : 松崎城、真崎城、正木城
 分類  : 平城
 築城者: 合田貞遠か
 遺構  : なし
 交通  : 伊予鉄道郡中線松前駅徒歩15分


       <沿革>
           築城の経緯は定かでないが、建武三/延元元(1336)に南朝の武将合田弥四郎貞遠
          が「松崎城」に立て籠もり、大山祇神社社家三島氏の一族の祝彦三郎安親がこれを攻め
          落としたとするのが、史料上の初出とされる。他方で、伊予国砥部荘千里城主大森盛長
          (彦七)が城主であったともいわれるが、伝承の域を出ない。盛長は建武三年(1336)の
          湊川の戦いで楠木正成を討ち取った人物ともいわれ、『太平記』には松前村の金蓮寺へ
          向かう途中、鬼女に化けた正成の怨霊に出くわしたとする話が載せられている。
           応安元/正平二十三年(1368)には、北朝方の幕府管領兼伊予守護細川頼之の家臣
          宍草出羽守が守る松前城を、南朝方の河野通直(通堯)が攻め落とした。戦国時代後期
          には、河野家臣栗上通宗・宗閑父子が在城していたとされる。
           天正十三年(1585)の羽柴(豊臣)秀吉による四国攻めで、河野通直が除封されると、
          豊臣家臣粟野秀用が松前城に10万石を与えられた。秀用はもともと伊達政宗の家臣で
          あったが、罪を犯して逃亡し秀吉に仕えていた。秀用は豊臣秀次の付家老となり、最終
          的に16万石まで加増されたが、文禄四年(1595)の秀次事件に連座して斬首された。
           代わって、加藤嘉明が淡路国志知城から6万石で松前城に移った。松前の北を流れる
          伊予川は、このとき嘉明の家臣足立重信によって改修され、以後重信川と呼ばれるよう
          になった。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、嘉明は東軍に属し、松前城は西軍の毛利氏に
          よって攻撃された。攻城軍の大将河野通軌は通直の養子で、毛利元就の外孫宍戸元秀
          の子ともいわれるが定かでない。通軌が河野家再興を掲げて三津浜に上陸すると、伊予
          国内の河野旧臣も数多く蜂起したとされる。
           毛利勢は松前城に使者を送り、開城を呼び掛けた。留守を預かる重信や重臣佃十成ら
          は、女子供を逃がす時間が欲しいと返答し、毛利陣営に酒肴を贈って抵抗の意思がない
          ように見せかけた。 十成率いる加藤勢はその日のうちに夜襲をかけ、油断していた毛利
          勢はさんざんに打ち負かされ、村上元吉や曽根景房らが討ち死にした(三津浜の戦い)。
           戦後、嘉明は20万石に加増され、松山城の築城を開始した。慶長八年(1603)年に城
          が完成すると、松前城は廃城となった。


       <手記>
           松前城は、重信川と長尾谷川に挟まれた水軍城だったものと思われます。『日本城郭
          大系』によれば、海岸の砂丘を利用した城だったということですが、今日では市街化や
          埋め立てによって遺構は消滅し、地形もまったく平らに均されています。県道22号線沿い
          に、石碑と説明板が立っているのみです。
           道後平野最大の河川重信川は、足立重信によって付け替えられたとされていますが、
          おそらくかつては松前城のすぐ北脇を流れていたのではないかと推測されます。

 松前城址碑。
説明板。 


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