松山城(まつやま) | |
別称 : 伊予松山城、金亀城、勝山城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 加藤嘉明 | |
遺構 : 天守、櫓、門、石垣、堀、井戸 | |
交通 : 松山市電大街道電停徒歩5分 ロープウェイまたはリフト利用 |
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<沿革> 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの戦功により、松前城主加藤嘉明は10万石 から20万石に加増された。嘉明は道後平野を見渡す独立山の勝山への築城を 計画したが、徳川家康の許可が下りたのは翌六年(1601)のことだった。この間 に、重臣足立重信により石手川を重信川に合流させる改修を行うなど、地均しが 進められた。同七年(1602)に本格的な築城が始められ、翌八年(1603)十月に 嘉明が松前城から移った。このとき、勝山の名が松山に改められた。しかし全て が完成したわけではなく、その後も城および城下町の整備が進められた。 寛永四年(1627)、嘉明は会津藩43万5千石に加増・転封となった。このとき、 城はまだ未完成だったといわれている。入れ替わりで、蒲生氏郷の孫忠知が、 60万石から24万石に減封され、会津から松山に移った。松山城が完成したのは、 この忠知のころとされる。 忠知の治政は良好だったといわれているが、代々蒲生家を悩ませた重臣抗争 が再燃した。ストレスが祟ったのか、寛永十一年(1634)に忠知は参勤交代の 途上で急死してしまい、嗣子がいなかったため蒲生家は断絶した。 松山城はしばらく大洲藩主加藤泰興の預かりとなっていたが、翌寛永十二年 (1635)に、久松松平定行が15万石で桑名から松山へ移封となった。同十九年 (1642)、定行は松山城を改修し、それまで5層であった天守を3層に改めた。 天明四年(1784)、落雷により天守を含む山城部の建造物のほとんどが焼失 した。天守が再建されたのは、ちょうど70年を経た安政元年(1854)になっての ことであった。 <手記> 松山城は、近世城郭としては異例の比高をもつ山城といえるでしょう。ほかに 適地はなかったのかと見回しても、道後平野を扼するにはたしかに湯築城では 奥すぎですし、松前城では海辺すぎます。ちょうど平野の中心部にある独立山 の勝山を選んだのは、むべなるかなといった感じはします。 現存12天守の1つを擁する松山城ですが、もう1つの特徴は天守以外の建物 も、数多く残存ないし復元されていることです。とくに、昭和三十三年(1958)に 最初に復元された馬具櫓を皮切りに、戦後の復興期ないし高度経済成長期に 再建された建物のすべてが木造であるという点は驚嘆に値します。日本各地で 鉄筋コンクリート造の天守閣が林立していたなかで、さも当然のように木造本格 復元が進められていたというのは、松山城がいかに市民にとって誇りであったか を物語っているようです。 もっとも新しく復元されたのは、山麓の二の丸跡ということです。多門櫓や四足 門が復元されたほか、御殿跡の間取りが地表復元されています。二の丸と山城 の間には有名な登り石垣があり、これも松山城特有の見どころの1つといえます。 ただし、一般に登り石垣とは、朝鮮出兵時の倭城において山城と港を結ぶため に築かれたものです。したがって、海からはいささか離れた松山城に登り石垣を 備えたとしても、防衛上の効果についてはやや疑問です。おそらく嘉明としては、 自らの水軍の将としての武功や築城技術を誇示する意味合いでわざわざ築いた ものではないかと推測されます。 |
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湯築城址から松山城を望む。 | |
天守群のおなじみのアングル。 | |
天守群を下から。 | |
大天守近望。 | |
天守から本丸を俯瞰する。 | |
同じく海側方面の眺望。 | |
馬具櫓。 | |
太鼓門と太鼓櫓。 | |
筒井門。 | |
筒井門隣の隠門。 | |
戸無門と筒井門西続櫓。 | |
大手門跡。 | |
登り石垣。 | |
二の丸多門櫓。 | |
二の丸御殿跡。 | |
二の丸の井戸跡。 | |
小谷門跡。 | |
三の丸の濠。 |