志知城(しち)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 菅道忠か
 遺構  : 堀、曲輪跡
 交通  : 高速バス西淡志知バス停下車徒歩10分


       <沿革>
           鎌倉時代初期に土豪菅和泉守道忠によって築かれたとされるが、確証はない。菅氏は
          室町時代の菅実邦の代に、野口氏を称したとされる。
           戦国時代に入って三好氏が台頭すると、三好長慶の末弟冬長が野口家の養子となり
          家督を継いだ。冬長は、天文二十二年(1553)に実兄三好実休(之虎、義賢)と細川家臣
          久米義広の間で起こった鑓場の戦いで、若くして討ち死にしたとされる。
           天正九年(1581)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉と池田元助が淡路国へ侵攻すると、
          志知城の野口長宗は織田軍に降伏し、黒田官兵衛孝高が城を預かったとされる。長宗に
          ついて、『淡路常盤草』では野口則守の子弘宗の子とし、則守か弘宗のどちらかが冬長と
          同一人物であるとしている。
           天正十三年(1585)には、秀吉の四国平定戦での功績により、加藤嘉明が志知城1万
          5千石を与えられた。文禄三年(1594)、嘉明は文禄の役での戦功により、6万石に加増の
          うえ伊予国松前城へ移った。
           志知は太閤直轄領となり、はじめ三宅丹波守が、次いで播磨龍野城主の石川紀伊守
          光元が代官として派遣された。慶長五年(1600)、光元は志知城に替わって叶堂城を築き、
          淡路水軍の拠点とした。遅くともこのときまでに、志知城は廃城となったものと思われる。


       <手記>
           志知城は、大日川と新川に挟まれた平地の城です。同じ三原平野には淡路国守護所
          とされる養宜館もあり、古くから開発されてきた地域と推測されます。
           一番の遺構は、地図上でもはっきりと分かる水濠です。この濠は内堀で、その外側にも
          外堀のラインをうっすら辿ることができます。内堀の南辺に橋が架かっていて、ここから
          城内に入ることができます。内郭は東西に分かれていて、西側が本丸、東側が二の丸
          だったと考えられています。二の丸側は畑になっていますが、本丸内部は現況藪でした。
          城内の遺構もはっきりしませんでしたが、石碑と説明板はしっかり設置されています。
           志知城は城地も狭くいたって中世的で、なにより水軍の拠点とするには奥まり過ぎて
          います。石川光元が大日川の河口に新城を築いたのはむべなるかな。むしろ淡路水軍
          を率いて朝鮮の役で活躍したという加藤嘉明が志知城に居城し続けたというのは、少々
          意外な感じがしました。

           
 志知城水濠西辺のようす。
同じく南辺のようす。 
 城址碑。
郭内のようす。 
左手が本丸側、右手が二の丸側です。 
 本丸の入り口。虎口跡か。


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