松田城(まつだ) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 松田氏 | |
遺構 : 曲輪跡、堀 | |
交通 : 小田急線新松田駅・JR御殿場線松田駅よりバス 「庶子」バス停下車徒歩15分 |
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<沿革> 相模国波多野荘の領主波多野氏は、平安末期に勢力を広げ松田郷にも所領を拡大した。 源頼朝挙兵に際して合力を求められた波多野義常は、拒否したため討手を差し向けられて 自害した。その子有常は、後に流鏑馬の腕を認められ、父の旧領から松田郷を与えられた。 波多野荘は叔父の義景が継ぎ、有常は松田氏を称した。 松田城がいつごろ築かれたのかは定かでない。南北朝時代、松田氏は河村城の河村氏 らとともに南朝方についたといわれる。河村城が北朝方との戦場となったため、松田郷も巻き 込まれた可能性はあるが、詳しいことは分かっていない。 その後、松田氏は分散していった。明応四年(1495)に北条早雲(伊勢宗瑞)が小田原城 を奪取すると(奪取年には異説あり)、旧城主大森氏と対立していた松田頼秀は、北条氏に 従った。頼秀は惣領家ではなく、備前国に移り住み幕府に仕えていた備前松田氏の一族で、 幕府の命により関東へ下向していた。 松田氏は最終的に、筆頭家老として北条家中最高の禄高を食むに至った。『新編相模国 風土記稿』によれば、松田城は松田新次郎康隆の持ち城とされている。康隆は頼秀の孫と いわれ、松田城の他にも深沢城や湯ノ沢城の城主を務めていたとされるが、詳しい事跡は 不明である。 康隆の兄ないし従兄弟に、天正十八年(1590)の小田原の役で豊臣秀吉に通じようとして 監禁された松田憲秀がいるが、松田城主であったかは詳らかでない。同役で北条氏が滅亡 すると、憲秀は秀吉に自害を命じられた。これにより、松田城も廃城となったと思われる。 <手記> 丹沢山地の南端に大きく張り出した山塊の南側斜面、いくつもの沢に区切られた峰の1つ が松田城址です。南には酒匂川を挟んで、小田原湾までの平野部の眺望が広がります。 右手には富士山も間近に望めます。 城は、天神沢と旗矢沢に挟まれた細尾根を利用したもので、連郭式に曲輪が並んでいた ものと推測されています。城跡一帯は蜜柑畑となっていて、雛壇状に削平地が並んでいる ものの、畑地化によるものか城の遺構なのか判然としません。ただ、大きく分けると主郭部 と堀切を挟んだ前曲輪部、そして主郭背後の後曲輪部の3つに分類することができます。 城内の遺構でもっともはっきりしているのは、主郭部と前曲輪部の間の堀切です。 |
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松田城址先端付近の説明板。 | |
前曲輪部から堀切と主郭部を望む。 | |
主郭部のようす。 | |
主郭部から前曲輪部を望む。 | |
城跡からの眺望。 |