松戸城(まつど) | |
別称 : 松渡城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 原氏か | |
遺構 : 土塁、堀跡か | |
交通 : JR常磐線/新京成電鉄松戸駅徒歩15分 | |
<沿革> 文正元年(1466)の、原信濃入道に宛てた将軍足利義政の『御内書案』に、「松渡城」は要の 城であるから堅く守るようにとする旨の記述がある。これが史料にみられる松戸城の初出とみら れるが、『日本城郭大系』ではその前年の寛正六年(1465)に、信濃入道とその子八郎が当城 に籠って上杉氏と戦ったとする史料があるとする。ただし、原典については不明である。原信濃 入道については、千葉氏族原氏の分家弥富原氏が代々信濃守を称している。同時代の人物と して、初代信濃守胤良とその子胤氏・助景兄弟の名が挙げられる。ただし、いずれも子に八郎 という名の者はおらず、具体的に誰を指しているのかは定かでない。 天文七年(1538)の第一次国府台合戦に際し、北条氏綱勢は松戸城一帯に布陣し、谷を挟ん だ北側向かいの相模台城一帯に陣を布く小弓公方足利義明勢と対峙した。同戦いでの主戦場 は、国府台ではなくこの相模台周辺であったとされる。 その後、原氏に代わって勢力を拡大した家老高城氏の所領に組み込まれたものと推測される が、詳しい経緯は不明である。天正十年(1582)時点で、高城氏一族の高城筑前守が城主で あったとされる。 天正十八年(1590)の小田原の役で高城氏が没落すると、松戸城も廃城となったものと思わ れる。 <手記> 現在の戸定ヶ丘歴史公園および千葉大園芸学部の正門より西側一帯が城域と推定されて います。域内に碑や説明などはありません。戸定ヶ丘歴史公園とは、明治時代に入ってこの地 に造営された旧水戸藩徳川家の邸宅「戸定邸」を中心とした市営公園であり、城跡については まったく触れられていません。 「戸定」とは字名で、「外城」と同義とみられています。『大系』ではこの「外城」を相模台城や 根本城に対応したものと考えているようで、その場合、戸定邸の尾根先側が城の中心部という ことになろうかと思われます。他方、「外城」を城外ないし城の出丸と読み解くならば、松戸城の 主郭は字戸定とは別のところにあったことになります。現在ではすっかり開発・造成されている ので、どちらが正しいかは判断のしようがありません。 『大系』によれば、公園内に人工の切れ込みがみられるとのことですが、戸定邸は市営にして はとてもきれいに管理運営されており、どこまで旧地形をとどめているか怪しいところです。唯一 確実と思われる遺構は、千葉大キャンパスの南辺から西麓へ下りる切通しです。この道の南側 には、字戸定とは反対側に突き出た小規模な尾根があり、おそらくここは曲輪だったものと推測 されます。この曲輪の付け根を断ちきる形で切通しが抜けており、かつての堀を利用したものと 考えられます。 切通しと戸定邸の間の峰の西端に、ややカーブを描いて突き出た箇所があり、物見台跡では ないかといわれています。現在は何かの碑が2基並んでおり、城の遺構であるかどうかは判別 できません。 もう1つ、正門を入った先の駐車場脇に土塁状の土盛りがあり、諸サイトでは遺構ではないか とされています。たしかに、位置的には細長い峰の付け根にあたり、ここに土塁と堀があったと しても不思議ではありません。ただ、駐車場脇という立地上、古いものかどうかはよくよく留意 する必要があろうかと思います。もし遺構であるとすれば、おそらく城の東端の区切りのものと 考えられ、城域を決定する貴重な指標であるといえます。 余談ですが、城めぐりの趣味上、お殿様の屋敷を部分的に公開したり、部分的に復元したりと いうのはあちこちで見てきましたが、戸定邸は旧華族の生活をほぼ余すところなく見学すること ができるので大変面白く、また管理も行き届いているのでとても美しい邸宅です。冬場れの日 には、縁側から遠く富士山を望むこともできるそうで、ちょっとした都会の観光にはもってこいだと 思います。 |
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西麓から登る切通し。堀跡か。 | |
同切通し。 | |
切通しの南の尾根先。 削平地跡か。 |
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千葉大駐車場脇の土塁状土盛り。 | |
物見台跡といわれる西端の張り出し部。 | |
戸定邸入口の門。 手前の階段は戦後に土地を削ったものだそうで、 かつてはずっと緩やかな坂道だったそうです。 |