相模台城(さがみだい) | |
別称 : 岩瀬城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 北条長時 | |
遺構 : 土塁か | |
交通 : JR常磐線/新京成電鉄松戸駅徒歩5分 | |
<沿革> 建長元年(1249)、後に第6代執権となる北条(赤橋)長時によって築かれたと伝わる。その後、 赤橋家が代々相続したが、正中三/嘉暦元年(1326)に得宗家北条高時が病のために出家し、 執権職を辞すると、この城に移住したとされる。代わって、長時の曾孫赤橋守時が同年四月に 執権に就任した。高時の官職が相模守であったことから、この台地が相模台と呼ばれるように なったとされる。 『太平記』によれば、正平十四/延文四年(1359)に下野国人芳賀兵衛入道禅可が足利尊氏 の命を受けて「岩瀬城」に入り、この地を領有した。しかし、翌十五/五年(1360)には新田義徳 が岩瀬城を奪い、その後和睦によって城は廃城となったとされる。 天文七年(1538)、小弓公方足利義明・里見義堯と北条氏綱・足利晴氏との間で第一次国府 台合戦が行われたが、その主戦場は相模台周辺とされ、『本土寺過去帳』には「相模台合戦」 と記されている。小弓公方方にとって松戸周辺は高城氏との前線地帯であり、相模台城が再興 されていた可能性は十分にあるが、同戦いの史料には城の存在は明記されていない。 この戦いで足利義明・義純父子が討ち死にし、古河公方足利氏の勢力は瓦解した。その後、 周辺は高城氏の所領となったが、相模台城については不明である。 <手記> 松戸駅東側のテーブル状の台地が相模台城址とされています。ただし遺構はおろか、構造や 城域も定かではありません。当然ながらベッドタウンの駅前ということですっかり開発されており、 旧地形をうかがうことすら困難です。 おかげで、台地の先端にある相模台公園が曲輪に見えたり、松戸中央公園南の切通しの上り 道が堀跡に見えたり、法務局の駐車場脇の土盛りが土塁に見えるなど、逸る気持ちを抑えるの が大変でした。 唯一遺構である可能性が感じられるのが、相模台小学校にある土塁状の高まりです。これは 『日本城郭大系』にも記載があり、小学校の校庭の築山にしては少々不自然です。ただ、『大系』 では明治時代に建設された旧陸軍工兵学校の造作である可能性も指摘されています。 聖徳大学の門を通ってすぐのところには「相模臺戦跡碑」と、足利義明・義純父子の墓とされる 経世塚があります。大学ですから入っても問題ないと思いますが、時間によっては人がほとんど いないので、門の守衛さんに断って訪ねるのが無難でしょう。 さて、『大系』によれば城域は600m四方とあるので、肺胞状の台地全体を指しているのでしょう。 ただ、それだと高城氏の居城小金城と同じくらいの巨大な規模となってしまいます。あり得ない とはいいませんが、最終的な改修者が高城氏だったとしても、ちょっとそこまで大きな城に仕上げ られていたようには思えません。まして、新興勢力である小弓公方足利氏が切り取った最前線の 土地に、短期間にそれほどの巨城が築けたかも疑問です。 ここで、相模台城の正式名称と思われる「岩瀬」とは、台地の南東側一帯の地名です。先述の 唯一の遺構らしき土盛りのある相模台小学校から松戸拘置所に向かって伸びる支尾根は、城を 築くにはちょうど良いサイズの舌状地形となっているように感じられます。現地を歩いての直感と しては、あくまでこの広い台地からさらに突き出た箇所を利用して築かれたものだったのではない かと考えています。もちろん、相模台合戦では台地全体が陣地として使われたのでしょうが。 |
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聖徳大構内の相模台戦跡碑。 | |
経世塚。 | |
相模台小学校の土塁状の高まり。 | |
土塁上の高まりを校庭内から。 | |
戸定邸(松戸城)周辺から相模台を望む。 |