岩切城(いわきり)
 別称  : 高森城、鴻の館
 分類  : 山城
 築城者: 伊沢家景か
 遺構  : 土塁、堀切、竪堀、曲輪等
 交通  : JR仙台駅より岩切駅前行きバス、
       今市橋バス停下車徒歩20分
       またはJR東北本線岩切駅下車徒歩30分
       


       <沿革>
           陸奥国府・奥羽鎮守府として築かれた多賀城は、他の古代城柵と異なり、中世まで存続していた。
          岩切城は、奥州藤原氏の滅亡後、陸奥国留守職に任じられた源頼朝の家臣伊沢家景によって築か
          れたとされている。伊沢氏は、後に役職名をとって留守氏を名乗るようになった。留守氏は、高用名
          (こうゆうみょう)という城下一帯の古代都市を治め、在地領主化していった。
           建武の新政で陸奥に下向した義良親王と北畠顕家は、多賀城に入城し奥州鎮守府とした。この頃
          に、行政の府多賀城と詰の城岩切城という関係が成立したようである。
           延元二/建武四年(1337)に顕家が本拠を霊山城に遷すと、多賀城には、足利幕府によって奥州
          管領が設置された。観応元/正平五年(1350)に始まる観応の擾乱に際して、畠山国氏と吉良貞家
          の両管領が対立すると、尊氏側についた留守氏は、畠山国氏とともに岩切城に篭城し、足利直義側
          の吉良勢と交戦した。観応二/正平六年(1351)に岩切城は落城し、留守氏は一時衰退した。
           永禄十年(1567)、伊達晴宗の三男で政宗の叔父の政景が留守氏に入嗣し、留守氏は伊達家の
          家臣化した。政景は、自身の家督継承に反対する家臣を討伐し、伊達一門として勢力を拡大すると
          ともに、元亀年間(1570〜73)に居城を利府城に移した。
           これにより、岩切城は廃城とされたものとみられている。


       <手記>
           岩切城は、古代奥州路と塩竈街道の結節点を見下ろし、麓を七北田川(ななきた)が洗う要地にあり
          ます。また城への登城路である県民の森に向かう道路は、「青麻道(あおそみち)」という旧道で、城の
          南から西を回って、利府や富谷に抜けています。
           本城のある高森山主峰は、両脇を神谷沢の深い谷がえぐる峻険な山で、そこに西側の搦手の曲輪
          群と東城の支峰が、両翼の様に付随しています。傍から見ると、ムサイ級戦艦を思わせる山様です。
          ただ、観応の擾乱に際して、城側の戦死が百余名ということから、初期の岩切城は、主峰とせいぜい
          西側の尾根ぐらいの規模であったと思われます。本城と東城の間に堀切が二条ほど穿たれていること
          からも、東城は後世(戦国期くらい)に拡張されたものであると推測されます。
           遺構の保存状況は極めて良好で、中でも樹木がきちんと整理されているために、全体の構造の把握
          が非常に容易になっている点は、他の山城遺構と比べて特筆に価します。主郭からは、多賀城や仙台
          平野はもちろん、遠く太平洋まで望むことができます。また堀切や竪堀、帯曲輪や腰曲輪まではっきり
          と確認することができ、往時の状況を十分に偲ぶことが出来ます。
           ちなみに、別名の高森城を「多賀の森」、鴻の館を「国府の館」の転訛とする説もあるようです。


           

 今市橋バス停のすぐ近くにある青麻道(あおそみち)の入口。
 左に曲がってしばらくいくとまた道標があり、それにしたがって
 山を登ります。
 しばらく行くと目の前に主峰である本城域が見えてきます。
 冬だからということもありますが、樹木が整理されているので、
 ここからでも曲輪や土塁の様子が見て取れます。
 搦手の西側支峰の谷筋に入城路があります。
本城との間には、神谷沢の深い谷が入っています。 
 主郭のようす。
主郭から東城域をのぞむ。 
 本城の帯曲輪。ほぼ完全な形で残っています。
     東城から本城をのぞむ。 
 本城と東城の間の堀切。


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