小弓城(おゆみ)
 別称  : 南小弓城、南生実城、小弓御所、小弓館
 分類  : 平山城
 築城者: 原氏か
 遺構  : 堀、土塁
 交通  : 京成千原線学園前駅徒歩15分


       <沿革>
           千葉氏重臣原氏の居城とされる。原氏は、千葉氏初代千葉常兼の弟の四郎頼常(常途)が、
          香取郡千田庄原郷を領したことにはじまるとされる。頼常の代からすでに小弓城に拠っていた
          とする説もあるが、本貫地とあまりに離れていることから信憑性は低いといえる。
           頼常の子孫は14世紀中ごろに胤惟の代で断絶し、宗家千葉氏胤の四男胤高が胤惟の娘を
          娶って跡を継いだ。小弓城は、胤高によって応永年間(1394〜1428)に築かれたともいわれる
          が、やはり確証はない。胤高の孫胤房の代までには築かれていたものとみられる。
           胤房は、享徳の乱において本家当主千葉胤直の叔父馬加康胤と共に鎌倉公方足利成氏を
          支持し、関東管領上杉氏に与同した胤直・胤宣父子を康正元年(1455)に攻め滅ぼした。康胤
          は翌二年(1456)に幕府の命を受けて追討軍を率いた東常縁に敗れて討ち取られたが、胤房
          は文明三年(1471)に小弓城で上杉勢と戦って討ち死にしたとも、同十一年(1479)に91歳の
          長寿を全うしたともいわれる。いずれにせよ、康胤とは命運を共にせず、小弓城と原氏は存続
          できたものとみられる。
           永正六年(1509)、連歌師宗長が「小弓館」に滞在し、胤房の子胤隆と連歌に興じた(『東路
          のつと』)。胤隆は、康胤の後裔とされる本佐倉城の下総千葉氏(佐倉千葉氏/後期千葉氏)
          のもとで勢力を蓄えていた。
           永正十四年(1517)ないし十五年(1518)、古河公方足利高基の弟空然が還俗して足利義明
          と名乗り、上総の真里谷信清(恕鑑)の支援を受けて小弓城へ迫った。2日間にわたる攻防の
          末、城は落ちて胤隆・胤清父子は同族の高城氏を頼ったとされる。義明は小弓城を仮の居城と
          定め、小弓公方や小弓御所と尊称された。
           天文七年(1538)、第一次国府台の戦いで義明をはじめ嫡男義純や弟の基頼が討ち死にし、
          小弓公方は1日にして滅亡した。これを受けて、胤清は北条氏綱の支援のもとで小弓城を回復
          した。
           従来は、胤清はまもなく北に新城を築き、こちらを読みは同じ生実城と名付けて居城を移した
          とされてきた。しかし近年の発掘調査により、生実城もそれ以前から存在していたことが明らか
          となっている。(南)小弓城のその後については定かでない。


       <手記>
           小弓城は、南に浜野川の流れる台地の角に築かれています。主郭部に相当する舌状地形の
          「古城」と、古城を取り巻く広大な外郭部から成り、『日本城郭大系』では前者を「内城」、後者を
          「外城」と呼んでいます。
           内城の先端側は墓地となっていて、ここに説明板が設置されています。それによると、墓地の
          南西端には土塁状の地形が認められるとあり、縁がめくれたそれらしき箇所は見られるものの、
          遺構かどうかは判然としません。また古城の東側、八剱神社脇の切通しは宮堀と呼ばれ、当時
          からの堀底道と思われます。
           内城は広大な畑地や民家となっていて、これといったものは見当たりません。古城の北側に、
          「小弓城と森台貝塚」と彫られた石碑が建っています。また、内城の中心線を北へ下りる切通し
          は北門と呼ばれているそうです。
           北門を出て千葉市埋蔵文化財センターに上がる途中に、城内最大の遺構である空堀があり
          ます。正確には峰続きの北側を断絶する堀切とみられ、かなり幅もあり規模の大きな堀跡です。
          堀跡から谷戸を挟んだ北西には、支砦とみられる長山砦跡があります。
           全体としてみると、小弓城は規模はそれなりに大きいものの、構造的には古めかしい縄張りと
          いった印象です。遺構はないものの、古絵図を見る限り生実城の方が先進的といえるでしょう。
          この点からは、第一に原胤清以降の中心が、生実城にあったことを指していると考えられます。
           次に、南の小弓城と北の生実城のどちらが先に築かれたのかという論点があります。これに
          ついては、まず小弓城が南を生実城が北を向いた城であるという点に注目すべきと考えます。
          すなわち、仮想敵や勢力拡大方向が南であったのは初期の原氏であり、北に敵を抱えていた
          のは、足利義明や原胤房ということになります。したがって小弓城が先にあり、義明ないし胤房
          によって生実城が新たに築かれたと見るのが、地勢上は妥当といえるでしょう。
           ただし、生実城に移った後も小弓城を放棄する必要はなく、両城で広義の生実城を構成して
          いたとも考えられます。

           
 字古城の説明板。
字古城の墓地縁の土塁状地形。 
 同上。
外郭部(外城)のようす。 
 宮堀と呼ばれる切通し。
古城の北の「小弓城と森台貝塚」の碑。 
 北門と呼ばれる切通し。
埋蔵文化センター南側の空堀。 
 同上。


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