本佐倉城(もとさくら)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 千葉輔胤
 遺構  : 堀、土塁、曲輪、虎口、溜池
 交通  : 京成電鉄大佐倉駅徒歩15分


       <沿革>
           文明年間(1467〜87)ごろに、佐倉千葉氏2代千葉孝胤によって築かれたと推定されている。
          孝胤の父輔胤は、千葉氏宗家千葉胤直の叔父馬加康胤の庶子とされ、康胤は重臣原胤房と
          共に胤直・胤宣父子を攻めて自害に追い込んだ。しかし、幕府の命を受けた同じ千葉氏一族の
          美濃国篠脇城主東常縁に追討され、康胤と嫡男胤持は討ち取られた。これを受けて、輔胤は
          千葉氏累代の居城である亥鼻城から、本佐倉の東方の岩橋へ拠点を移したとされる。一方で
          『千学集抄』によれば、輔胤はもともと印旛郡を本貫とする千葉氏庶流馬場胤依の三男である
          とされている。千葉氏の内紛は享徳の乱における親上杉派の宗家と親古河公方派の康胤らの
          争いであり、『千学集抄』が正しいとすれば、康胤死後に親古河公方派が輔胤を擁立したもの
          と考えられる。一方の親上杉派は、胤宣の弟胤賢の子である実胤・自胤兄弟が、太田道灌の
          支援のもとでそれぞれ武蔵国石浜城赤塚城に拠り、武蔵千葉氏と呼ばれた。
           孝胤が本佐倉に城を築いたのは、水運を通じて古河との連絡が容易であったからともいわ
          れる。文明三年(1471)、古河公方足利成氏は古河城を攻め落とされ、孝胤の領内へ退いた。
          成氏の退避先は本佐倉城とも亥鼻城に近い平山城ともいわれ、判然としない。翌四年(1472)
          には、成氏方が古河城を奪還し、成氏も帰還した。このとき、成氏は「千葉介無二補佐(『足利
          成氏書状』)」と孝胤を賞した。輔胤自体は終生岩橋氏を称し、孝胤はこのときに千葉氏を公称
          したともいわれ、孝胤の系統は佐倉千葉氏のほか下総千葉氏とも呼ばれる。
           文明十年(1478)、成氏と上杉氏の間で和議が成立し、両者および幕府によって千葉自胤が
          千葉氏宗家と認められた。この裁定に反発したため、孝胤は上杉氏家宰太田道灌に攻められ、
          翌十一年(1479)には臼井城を落とされた。しかし、下総国人の多くが自胤を支持しなかった
          ことから、孝胤を滅ぼすまでには至らなかった。一連の戦いに本佐倉城がまったく登場しない
          ため、本佐倉城の築城はこれより後とする説もある。やがて、道灌が暗殺され自胤も没すると、
          孝胤が影響力を回復して下総での地位を確立した。
           延徳二年(1490)、本佐倉城下に市や町が立てられたことが記録にみられ、遅くともこのとき
          までに、城が築かれていたものと考えられる。大永八年(1528)には、孝胤の子勝胤が自身の
          名にちなんだ勝胤寺を城下に創建した。また、これに先立つ同三年(1523)には、勝胤の嫡孫
          利胤の元服が本佐倉城内の妙見宮で執り行われている。千葉氏当主の元服は千葉妙見宮で
          行われるのが通例であるが、このときは対立する小弓公方足利義明の勢力下にあったことに
          よる非常措置であった。
           天正十三年(1585)、千葉邦胤が近習の放屁を叱責したことを恨まれて殺害されるという事件
          が起きると、妻の実家である後北条氏の干渉を受け、北条氏政の子直重が婿養子として家督
          を継いだ。これにより、本佐倉城は北条一門の居城として最終的な改修を受けたと考えられる。
          同十八年(1590)の小田原の役に際して直重は小田原城に詰め、本佐倉城は浅野長吉(長政)
          らに攻められ開城した。役後、千葉氏は改易となり、本佐倉城も廃城となった。
           同年に徳川家康が関東に入封して以降、久野宗能・三浦重成・武田信吉・松平忠輝といった
          面々が佐倉に所領を与えられた。彼らは本佐倉城跡ないしその近辺に陣屋を置いたともいわ
          れるが、詳しい政庁の位置は定かでない。


       <手記>
           本佐倉城は1998年に国の史跡に指定されて以降、知名度が大きく上がった城跡です。近年、
          麓にガイダンス施設や駐車場が整備されています。ボランティアガイドさんの話では、かつては
          一面の畑地だったところ、土地が譲渡されたため、史跡公園としてこれだけきれいに整えられる
          ことになったそうです。また、施設で配布されているパンフレットの完成度がとても高く、本当に
          無料でよいのかと思ってしまうほどでした。
           三方を低地に囲まれた半島状の地形を利用した城で、当時はおそらくすぐ麓まで印旛沼の水
          が入り込んでいたものと推測されます。私が訪れた時点で史跡公園化されていたのは、先端の
          城山とその手前の奥ノ山および倉跡、そして倉跡から続く斜面の通称W郭です。城山が主郭に
          相当するとみられ、発掘調査の結果、殿舎跡をはじめ庭園や茶室、築山などの跡が検出されて
          います。二ノ郭にあたる奥ノ山は、前出の佐倉妙見宮があったところとされ、城山との間の堀切
          には木橋が架けられていたほか、堀自体も堀底道として利用され、別個に門が設けられていた
          ようです。
           城山の北には、ガイダンス施設等のある東山馬場の浅い谷戸を挟んで、東山と呼ばれる細い
          尾根が延びています。尾根の付け根には北麓からの虎口が開いていますが、東山自体は外側
          に横堀や土塁、堀切が設けられているものの、峰上の曲輪形成ははっきりとしません。この点、
          パンフには東山そのものが巨大な土塁として機能したのではないかと書かれていますが、私は
          もう少し論を進めて、東山馬場には船着き場が設けられていたのではないかと推察しています。
          港を守るためとすれば、東山に外向きの土塁線しかないことも説明がつくでしょう。さらにいうと、
          半島の先端に居館も兼ねた主郭があり、その付け根側を奥ノ山と呼ぶのも、一般的なセオリー
          とは曲輪配置の順番が逆のように感じられます。これについても、城山の北麓に港があり、陸路
          より船での出入りを主体としていたと考えれば合点がいきます。
           北条直重入嗣以前の主城域として、倉跡の西と北にセッテイ山と東光寺ビョウがありますが、
          こちらは未整備のうえ、だいぶ荒れています。遊歩道はしっかりしているので、セッテイ山前後の
          空堀などは規模が大きく見ごたえがありますが、水の手の貯水池は藪に埋もれていて、残念な
          状況です。東光寺ビョウはごく緩やかな傾斜地ですが、「ビョウ」とは突き出た地形を指すらしく、
          その脇に突出した土塁地形のことを意味するとも考えられているそうです。
           主城域西側の荒上地区には外郭が設けられ、現状で北西の切り通し道から南西の虎口跡に
          かけての西辺と、南辺の大部分に堀や土塁がかなり良好に残存しています。周辺には畑地や
          民家が広がっていて、普通なら埋められて均されておかしくないところ、これだけ長大に遺構が
          残っているというのは、ほとんど奇跡のように感じました。とくに南辺には横矢折れの張り出しが
          みられ、直重入嗣後の拡張ではないかと推察されます。
           本佐倉城については、佐倉千葉氏の成立過程の諸疑問と合わせて、築城時期が判然としま
          せん。道灌が孝胤を攻めた際に本佐倉城の名が見られないことから、これより後の築城とする
          説も有力視されていますが、そもそもそれ以降についても、本佐倉城が戦場となったことはあり
          ません。したがって、攻城戦の有無を以て築城時期を推定すること自体、あまり意味のあること
          とはいえないでしょう。さらにいえば、千葉氏自体が本佐倉城を実戦向けの城とはみなしていな
          かった可能性も考えられます。永禄九年(1566)に上杉謙信が大軍で攻め寄せたときでさえ、
          千葉氏や北条氏は本佐倉城ではなく臼井城で迎え撃ち、撃退しているわけですから、そもそも
          本佐倉城は有事の詰城とは認識されていなかったとみるのが自然ではないでしょうか。
           この点、学研の『戦国の堅城U』において某ミリタリーマニアの論者が、本佐倉城の最終的な
          縄張りをして「「政」を凌駕した冷徹なる「軍」の論理」などと評しています。この方は同様のこと
          を観音寺城でも述べていますが、両城とも当の本人たちが籠城戦に用いようとしなかった以上、
          甲州流軍学者のように机上の攻防論をいくら並べても意味がないように思うのです。千葉氏や
          北条一門の居城にふさわしい格と規模を以て整えられた「政」の居城、それが本佐倉城の素顔
          ではないかと考えています。

         
 東から本佐倉城跡を望む。
東山馬場の石碑とガイダンス施設、および駐車場。 
 W郭のようす。
東山の虎口。 
 同上。
東山を北から望む。 
 東山の横堀と土塁。
東山北支尾根の堀切。 
 北支尾根先端側のようす。
東山頂部の土塁。 
 W郭脇の虎口と門跡。
城山(主郭)の堀切と門跡。 
 城山の堀切と、奥に蔀状の土塁。
城山虎口。 
 虎口と奥に仕切り状土塁を望む。
城山から奥ノ山への木橋跡。 
 城山のようす。
城山の主殿跡。 
 同築山跡。
城山から東山馬場を見下ろす。 
 奥ノ山脇の竪堀。
奥ノ山の虎口。 
 奥ノ山のようす。
奥ノ山の妙見宮跡と土塁。 
 奥ノ山と倉跡の間の土塁。
倉跡のようす。 
 倉跡からW郭にかけての傾斜地。
奥ノ山南側の堀底道状虎口。 
向根古屋へ通じる出入口です。 
 奥ノ山の空堀。
 同上。 
 同空堀北端の虎口および木戸跡。
北から見た東光寺ビョウ。 
 セッテイ山現況。立入禁止でした。
セッテイ山の横堀と土塁。 
 セッテイ山の切岸。
セッテイ山の虎口。 
 セッテイ山の空堀。
同上。 
 空堀向こうの土塁。
同上。 
 水の手の溜池。
外郭の荒上地区。 
 同上。
外郭北西の切岸。 
 同じく堀跡の切通し道。
外郭南西の虎口跡。 
 虎口跡脇の空堀。
外郭南辺の堀および土塁を望む。 
 外郭南辺の空堀と土塁。
同上。 


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