沢山城(さわやま)
 別称  : 三輪城
 分類  : 平山城
 築城者: 不明
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀
 交通  : 小田急線鶴川駅徒歩20分


       <沿革>
           『新編武蔵国風土記稿』三輪村の項に、七面堂周辺を古塁の跡と考察する一文がある。近年まで、
          これ以外に沢山城に関する記述がなく、遺構は明確ながら長らく謎の城とされていた。戦後と思われ
          るが、付近の民家から沢山城に関する北条氏照の印判状が発見された。しかし、欠字が多く発行年
          が不明であったためか、あまり重要視されてこなかったようだ。印判状では、三輪郷の馬をことごとく
          集め、城米を江之■(■は欠字)まで届けるよう命じている。発掘調査の結果、城内から焼米が出土
          したことで印判状の記述との一致が指摘され、沢山城の役割について関心が集まった。
           印判状の発行年については、押されていた印が元亀四/天正元年(1573)からの使用が認められ
          るものであったことから、北条氏が滅亡する天正十八年(1590)までの17年間に絞られた。これらの
          記述から、沢山城は備蓄米の集積地として機能していたのではないかと推測されるようになった。


       <手記>
           上記の通り、一通の書状以外に手がかりがないため、今なお謎の城といって差し支えないかと思い
          ます。「江之■」が何を指すかについてですが、城郭研究家の中田正光氏は『村人の城・戦国大名の
          城』のなかで、「江ノ島以外には考えられない」と断じています。その根拠は、江ノ島以外に考えられる
          のは「江之戸」すなわち江戸城だけであり、江戸城へ運搬するのなら鶴見川の水運を使うはずである、
          というものです。
           しかし、私が見たところ、鶴川近辺は鶴見川のかなり源流近くで、筏程度なら何とか進めそうですが、
          船はとても浮かべられないような川幅と水量しかありません。また、江戸以外にも、たとえば「江之下」
          とすれば、榎下城を指すものとも考えることができます。このように、江之■を江ノ島と断ずるのはいさ
          さか論拠不足ではないかと思われます。
           さて、沢山城は鶴見川河岸の丘陵の先端付近を広く利用した城です。主郭と思われる南東端の曲輪
          の一角には、さらに一段高いスペースに七面堂が建っています。ここはおそらく、田中祥彦氏も『多摩
          丘陵の古城址』で指摘している通り、櫓台であったものと考えられます。沢山城で興味深いのは、この
          主郭と、副郭と思われる西側の曲輪については深い堀と土塁がめぐらされた、堅固で複雑な縄張りで
          あるのに対し、北側に広がる曲輪はかなりだだっ広いスペースとなっていることです。このような縄張り
          からも、沢山城が兵糧米の集積地であったとする推測はかなり補強されると思われます。
           また、主城域の西側には南北に鶴川街道が走り、当城は街道掌握の役割もになっていたものと推測
          されます。城へは、熊野神社南から尾根筋に登るか、高蔵寺から迂回して登るかの2ルートがあります。
          いずれも沢山城の南端と北端にあたる場所と考えられており、熊野神社の北脇には立派な空堀が残存
          しています。当城が、米の集積と街道掌握という重要な役割を負った、かなり規模の大きな城であった
          ことが全体としていえると思われます。
           このようににわかに有名になったことで、七面堂はじめ周辺の土地を所有する地主の方がかなり神経
          を尖らせておられるようです。七面堂までのルートにはビニールテープが張られ、それ以外の私有地や
          畑地への侵入は固く断られています。なかには「団体お断り」や「TVの取材お断り」といった立札もあり、
          そんなのまで来られてはお困りだろうと納得しました。訪れる際には細心の注意を払う必要があります。

           
 主郭櫓台と思われる七面堂。
七面堂西側の副郭と思われる曲輪の土塁と堀。 
 主郭のようす。
主郭北側の曲輪のようす。 
 主郭北側の曲輪の土塁。
 ただし、畑地化によるものか当時のものかは判別不能。
熊野神社北脇の空堀。 


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