箕作城(みつくり)
 別称  : 箕作山城、清水城、清水山城
 分類  : 山城
 築城者: 六角政堯
 遺構  : 土塁、石垣跡、虎口跡
 交通  : 近江鉄道河辺の森駅徒歩30分


       <沿革>
           文明三年(1471)の文明の乱(京極騒乱)に際し、京極高清を支持した六角佐々木氏
          当主六角高頼(亀寿丸)に対して、京極政経と組んだ高頼の従兄弟(異説有)六角政堯
          は、東軍から近江守護に任じられ、「清水城」に拠って争った。この「清水城」が箕作城の
          前身とされ、一般にはこのときに築かれたものと考えられている。ただし、亀寿丸と政堯
          の争いは応仁元年(1467)に応仁の乱が勃発したときにはすでに顕在化しており、応仁
          年間(1467〜68)には築かれていたものとみる向きもある。政堯は文明三年十月に討ち
          死にし、六角氏の家督は高頼に統一された。このとき、清水城も一旦廃城となったもの
          とも推測されるが、詳細は不明である。
           天文十九年(1550)、高頼の子定頼によって、居城観音寺城の支城として改修された
          と伝わる。永禄二年(1559)に定頼の子義賢が嫡男義治に家督を譲ると、義賢は一時
          箕作城へ隠居したとされる。このころまでには、城は箕作(山)城と呼ばれるようになって
          いたものと考えられる(ただし、義賢が山上に籠ったとは考えにくく、山麓に館を築いて
          移ったものと推測される)。
           永禄十一年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を図ると、六角氏は観音寺城
          周辺で迎撃する構えをみせた。観音寺城には六角父子ら1千人、和田山城に6千人、
          そして箕作城には、建部源八郎秀明・吉田出雲守・狛修理亮ら3千人が配された。六角
          勢の作戦は、織田軍がいずれか1城に手間取っている間に他の拠点兵で挟撃し、さらに
          同盟関係にあった三好三人衆らの援軍を待つというものであったといわれる。
           しかし、信長はこの作戦の裏をかくよう、和田山城と観音寺城には押さえの兵を充て、
          主力を箕作城へぶつけた。九月十二日、佐久間信盛や丹羽長秀、木下秀吉らの兵が
          攻め上り、夜まで続いた激戦の末、箕作城は落城した。箕作城の陥落により六角氏の
          作戦が呆気なく崩れると、和田山城の将兵は一夜にして逃散し、六角父子も観音寺城
          を棄てて甲賀へ落ちていった。箕作城はそのまま廃城になったものと推測される。
           ちなみに、江戸初期に六角氏の子孫を称した沢田源内が著したとされる『江源武鑑』
          では、定頼は六角氏綱の子義秀の陣代に過ぎず、箕作城に移って箕作氏を称していた
          としている。義秀については実在が確認できず、『江源武鑑』も偽書とされており、定頼
          陣代説は今日ごく一部の郷土史家にしか支持されていない。他方で、江戸時代後期の
          蘭学者箕作阮甫は、「箕作定頼」の後裔を称している。


       <手記>
           箕作城は、観音寺城から中山道を挟んだ南側に2つある山のうち、北側の峰上にあり
          ます。こちらの山を今日では清水山と呼び、南側の山を箕作山といいます。すなわち、
          箕作(山)城は箕作山の上にはないという、奇妙なことになっています。この点、後述の
          とおり箕作城には数千人を収容できるほどの規模はないため、南の箕作山にも城砦が
          あったのではないかとも一時期いわれていたそうですが、いくら探してもそれらしき遺構
          は見つからなかったようで、ちょっとしたミステリーとなっています。
           城へは、北麓の貴船神社脇、南東麓の建部神社脇、および北西麓の清水鼻から登る
          ことができます。私は貴船神社参道脇から登下山しました。尾根筋に出てすぐに、箕作
          城址の石碑が出迎えてくれます。縄張り図によってはここも城内に含まれているのです
          が、石碑や鉄塔の建設によって地形が改変されており、断定はできません。
           主城域は、大きく分けて東西2つの曲輪からなっています。西側の曲輪が清水山頂に
          あたり、主郭もこちらと考えられています。両曲輪とも、城外側に虎口跡と石垣の痕跡が
          見受けられます。また、山上一帯は樹木が伐採されていて、眺望絶佳となっています。
          樹木の生い茂る観音寺城では得られない景色なので、感慨深いものがあります。とは
          いっても、城址公園として整備してくれたわけではなく、鉄塔建て替え工事に伴うものだ
          そうです。新調された鉄塔の脇には、危なっかしげに土塁が吹き晒しとなっています。
           箕作城は、石垣や虎口を備えてはいるものの、規模はお世辞にも大きいとはいえず、
          とても3千人もの軍兵が籠城できるとは思えません。あるいは、城内だけでなく清水山
          全体に陣取っていたのかもしれません。この点に関しては、今もなお謎としかいいようが
          ありません。

           
 箕作城址碑。
 ただし、ここは一般に城外と考えられています。
東曲輪から主郭を望む。 
 主郭虎口の石垣。
主郭虎口を望む。 
 主郭の土塁跡。
主郭から東曲輪を望む。 
 東曲輪虎口の石垣跡。
主郭からの眺望。 
左手の山が観音寺城址。 
画面のさらに右手奥に和田山城址。 


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