和田山城(わだやま)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 和田高成か
 遺構  : 曲輪跡、土塁
 交通  : JR東海道本線能登川駅よりバス
       「和田」バス停下車徒歩15分


       <沿革>
           『近江の山城』によれば、寛文年間(1661〜73)に成立した地誌『淡海木間攫』に、六角
          政頼三男の種村和泉守高成が和田山に城を築き、和田氏を称したとあるとされる。政頼
          については六角高頼の父とする説もあるが、六角氏の系譜上どこに位置する人物か定か
          でない。高成以降の和田氏についても、詳細は不明である。
           永禄十一年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛の軍を興すと、六角義賢・義治
          父子はこれに抵抗する構えをみせた。六角父子は和田山城はじめ、居城である観音寺城
          の周辺諸城に兵を配置した。和田山城は、田中治部大夫以下6千人が守ったと伝わる。
           しかし、信長は和田山城に対しては抑えの兵を置いただけで、主力を観音寺城の向かい
          の箕作城へ差し向けた。持久戦に持ち込もうとした六角父子の目論見に反して、箕作城は
          一晩で落ちた。これを知った和田山城の将兵は、戦わずして城を捨てて逃散した。
           同じく観音寺城の六角父子も甲賀へと落去し、和田山城はそのまま廃城となったものと
          思われる。


       <手記>
           和田山城は、愛知川に面した独立丘の山頂に築かれた城です。先の『近江の山城』では
          和田山北麓の共同墓地から登るルートを推奨していて、私もこちらから登ってみたのです
          が、途中で道がなくなってしまい引き返さざるを得ませんでした。今度は南麓の和田神社の
          裏手から登ったのですが、こちらは登山口に城址碑があり、また山頂まで見紛うことのない
          一本道の階段が続いているので、私はこのルートをおすすめします。
           階段を登ること5分ほどで山頂に着きますが、案内などは一切ないため、どこが城跡なの
          かしばしウロウロとしてしまいました。結局、階段を登りきったあたりで、山道から一歩藪の
          中の獣道を分け入ったところに、土塁を発見することができました。土塁はコの字型に折れ
          ていて、その内側が曲輪跡と思われます。また、土塁の先端は幾分膨らんだ形をしていて、
          おそらく櫓台になっていたものと推測されます。
           全体的にみて、規模としては小さな城であったと見受けられます。観音寺城の戦いでは、
          前述のとおりこの城に6千人が籠もったとされていますが、とてもそんな千単位の兵が駐屯
          できるとは思えません。あるいは、城として迎え撃つというよりは、和田山全体を陣地として
          織田軍と対峙していたとも考えられます。それにしても、6千人も籠ったら山は人でいっぱい
          になってしまいそうで、なんとも謎といえます。

           
 土塁。右手奥が櫓台であったと思われます。
曲輪のようす。  
 和田神社裏手の登城口の城址碑。


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