三梨城(みつなし) | |
別称 : 沼田城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 三梨道実 | |
遺構 : 曲輪、土塁、虎口 | |
交通 : JR奥羽本線湯沢駅からバスに乗り、 「下の宿」下車徒歩5分 |
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<沿革> 稲庭城主小野寺晴道の三男道実が築き、三梨氏を称したとされる。晴道は居城を沼館に 移した小野寺泰道の次男であるため、道実は本家から見て分家の分家ということになる。 道実の子孫とみられる藤兵衛尉道嗣は、理由は不明だが陸奥国和賀郡へ去り、小笠原 太郎左衛門尉道英が三梨城主に収まったとされる。小笠原道英の出自については詳らか でない。 文禄五年(1596)の最上義光による雄勝郡侵攻に際して、道英の拠る三梨城も攻め落と されたとされる。道英および三梨城のその後については不明である。 <手記> 三梨城は緩やかな舌状の丘に築かれた城で、稲庭城から見ると北の出先機関といった 位置にあります。信号機のある北西麓の国道交差点角に標柱が建てられていて、集落の 生活道路沿いから登り道が通じています。 中腹は段々の畑地となっていて、道はその付け根を割り入ることから、おそらく腰曲輪や 虎口の跡と思われます。主郭とみられる丘上はかなり面積があり、登ってすぐ目の前には 櫓台状の土塁も見受けられます。夏場とて主郭には下草が繁茂し、ちょっと奥まで行くのは 断念しました。春先なら、だいたいの範囲は歩けるのではないでしょうか。全体的に緩やか で高さもないため、あるいは平時から主郭に館を置いて居住していたとも考えられます。 ひとつ謎なのは、最後の城主である小笠原道英なる人物です。「道」の字から小野寺氏 の一族とも考えられますが、八柏道為のように一字拝領しているケースもあるため、断言 はできないでしょう。三梨の北の三又城主に小笠原氏がありますが、早い段階で雄勝郡 を逐われているため、直接関係があるかは疑問の余地があります。三梨氏に何があった のか気になるところではありますが、考察材料がほとんどないため、真相は不明です。 |
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沼田(三梨)城址標柱。 右手奥の丘が実際の城跡。 |
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主郭の櫓台状土塁。 | |
主郭のようす。 | |
虎口跡か。 | |
帯曲輪か。 | |
同上。 | |
虎口跡か。 |