中城 ( Mittelburg ) |
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別称 : ミッテルブルク城 | |
分類 : 平山城(Hügelburg) | |
築城者: コンラート1世・フォン・シュタイナハか | |
交通 : ネッカーシュタイナハ駅徒歩15分 | |
地図 :(Google マップ) | |
<沿革> ネッカーシュタイナハの「四城」の1つ。四城のなかでは2番目に古いとされる(3番目とも)。 12世紀後半に、後城主ブリッガー2世・フォン・シュタイナハの末子コンラート1世によって築か れたと伝わる。コンラート流シュタイナハ家が城主家となったが、1325年にボッポーが死ぬと 男系が絶え、ボッポーの2人の婿であるルッツォ・フォン・ヘルムシュタットとコンラート・ツー・ エルバッハが城を分割相続した。1382年には、ルッツォの子ボッポーが残りの半分も獲得し、 中城全体を手中に収めた。 しかし、1398年には新しく獲得した側の半分が早くもハンス・フォン・ヒルシュホルンに売却 された。さらに、ボッポーは嗣子なく没し、遺領となる残りの半分はラインハルト・フォン・ナイプ ペルクが受け継いだ。1442年、ラインハルトは持分である城の半分を、後城主ヴァイプレヒト 3世・フォン・ヘルムシュタットに抵当に入れた。ヴァイプレヒト3世が没すると、今度はヒルシュ ホルン家の領有として、中城は単独所有されることになった。 1497年には、前城主ブリッカー14世・ラントシャート・フォン・シュタイナハが中城の部分所有 者として登場する。彼の持ち分は、後に後城主ハインリヒ7世・フォン・ハントシュースハイムに 売却された。1550年にはハンス・プライカルト1世・ラントシャート・フォン・シュタイナハがハント シュースハイム家断絶後の裁判を経て、中城のブリッカー14世以来の領分を相続した。さらに 1575年、コンラート1世・ラントシャート・フォン・シュタイナハが中城全域を獲得することに成功 した。これにより、250年ぶりに中城は再び単一の所有者を戴くこととなった。しかし、シュタイ ナハ家は1653年に無嗣断絶し、1657年にヴォルフ・ハインリヒ・フォン・メッテルニヒ=ブーア シャイトが城主となった。時のシュパイヤー司教ロタール・フリードリヒ・フォン・メッテルニヒ= ブーアシャイトの影響によるものとみられるが、両者の関係については定かでない。メッテル ニヒ家の下で、四城は同一城主家の所有に統一されることになった。 1753年にメッテルニヒ=ブーアシャイト家も無嗣断絶し、一時ヴォルムスおよびシュパイヤー 司教座の領地となったが、1803年の陪臣化(Mediatisierung)によりネッカーシュタイナハ一帯 はヘッセン領となり、中城はドルト男爵家が相続した。1925年にルートヴィヒ・フォン・ドルトが 死去すると、家督は養子のアレクサンダー・フォン・ヴァルスベルク=ドルトが継いだ。今日も、 中城はヴァルスベルク=ドルト家の邸宅である。 <手記> 中城は、ネッカー川とシュタイナハ川に挟まれた細長い峰に並ぶ四城の、先端から数えて 2番目に位置しています。「中城(Mittelburg)」とは、後城や前城に対する位置関係から名が 付けられたものと思われます。 四城のなかでは唯一ゴシック調の館が目を惹くもっとも壮麗な城ですが、私有地かつ居宅 なのですから当然といえば当然です。中城と前城の2つがヴァルスベルク=ドルト家の個人 所有ですが、住居として使われているのは中城だけのようです。 残念ながら内部は公開されていないので、脇を通って後城を目指すよりほかありません。 尾根の頸部を利用しているので、かつては前後に堀切があったものと思われますが、今では 東側のみが残っています。 ちなみに、表題の写真は燕巣城の主塔銃眼から中城を眺望したものです。 |
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中城(右)と後城(左)。 | |
前城(右)と中城(左)。 | |
東隅の空堀。 |