宮田城(みやだ) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 宮田左近か | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : 高速バス「中央道宮田」下車徒歩30分 | |
<沿革> 土豪宮田氏の詰城とされる。宮田氏は、応永七年(1400)の大塔合戦で守護小笠原 長秀方として宮田大和守の名が『大塔軍記』に現れるのが初出とされるが、出自など は明らかでない。『探訪ブックス 中部の城』には、宮田左近が天文年間(1532〜55)に 築いたとあるが、典拠は不明である。なお、宮田氏の平時の居館は東麓の北割付近 にあったとみられている。 弘治二年(1556)、宮田氏は春日城主伊那部重親・殿島城主殿島重国兄弟ら伊那 の国人衆とともに武田信玄に背いて蜂起した。しかし、反乱はまもなく鎮圧され、宮田 親房や重親・重国兄弟ら8人が首謀者として伊那狐島で処刑された。その後の宮田城 については不明である。 <手記> 宮田城へ行くには、真慶寺門前の道を少し西へ進み、宮田霊園入口と彫られた碑に 従って右に折れます。高速道路の下をくぐると霊園は右ですが、左に曲がってしばらく 山道を上がると、登山口に説明板が立っていて、駐車スペースもあります。そのまま 林道を突き進めば最後尾の堀切のすぐ裏まで行けるようですが、結構な道のりの上に 道中は未舗装のようで、やはり下から登ったほうが無難でしょう。 登りはじめてほどなく竪堀が現れ、道は九十九折れにこの竪堀を何度か横切ります。 主郭近くから登山口付近まで伸びている長大な竪堀で、期待度が高まります。しかし ながら、宮田城でまとまった兵を収容できるのは主郭のみで、曲輪と堀の規模の差が 大きな特徴の1つです。主郭背後は三重堀切となっていて、そのうち2条は、下で1つの 竪堀につながっています。 さらに尾根伝いに登っていくと、先述の林道までに計3つの堀切が断続的に連なって います。これらは主郭からはいくぶん離れているため、事前に知らなかったらそこまで 遡って確認はしなかったでしょう。いずれの堀切も、やはり規模の大きな竪堀を伴って います。 このように、限られた守備スペースと大規模な堀という対照的な遺構を擁する宮田城 ですが、この最終形態が宮田氏によるものか、それとも武田氏が宮田氏没落後に改修 したのかは、興味深いものの私には判断材料がありません。 |
|
宮田城跡を見上げる。 | |
登山道が何度か横切る竪堀。 | |
竪堀を見上げる。 | |
尾根先端側の腰曲輪を望む。 | |
主郭虎口。 | |
主郭のようす。 | |
同上。 | |
同上。 | |
主郭下の帯曲輪。 | |
主郭背後の二重堀切。 | |
二重堀切が1つの竪堀に合わさるところ。 | |
三重目の堀切。 | |
尾根を遡って登った先の堀切。 | |
堀切から延びる竪堀。 | |
2条目の堀切。 | |
堀切から延びる竪堀。 | |
3条目の堀切。 | |
堀切から延びる竪堀と堀底道。 |