春日城(かすが) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 伊那部重慶か | |
遺構 : 堀、曲輪、土塁 | |
交通 : JR飯田線伊那市駅徒歩20分 | |
<沿革> 『伊那武鑑根元記』によれば、平氏の血を引く粟田口民部重吉の16代子孫にあたると される伊那部大和守重慶が、天文三年(1534)にこの地にやってきて300貫文を知行し、 春日城を築いたとされる。重慶の後は重成、重親と続き、重親の弟の重国は殿島城に 分家して勢力を拡大した。 天文十四年(1545)に、武田晴信によって高遠城・福与城が相次いで攻め落とされる と、重親・重国兄弟も武田氏に降ったものとみられる。 弘治二年(1556)、重親・重国兄弟をはじめ、伊那の旧国人が川中島の戦いの間隙を 突いて蜂起した。しかし、反乱はまもなく鎮圧され、首謀者のうち8人は狐島(伊那市)で 処刑された。後任の春日城主には春日昌吉が任じられたが、その出自は詳らかでない。 天正十八年(1582)の織田信長による武田攻めに際し、昌吉は高遠城の戦いに参加 して討ち死にした。春日城は高遠落城後に火を放たれたとされ、戦後は再建されること なく、そのまま廃城となった。 <手記> 春日城は天竜川の河岸を2本の沢が削った、細長い台地を利用した城です。城跡は 春日公園として整備され、とくに桜の時期にはにぎわうようです。台地を2条の堀切で 切断しているうえ、先端の角地にさらに縦横¬字の堀を穿ち、方形の主郭を形成して いるのが特徴です。まったく同じ縄張りが、北方の南箕輪村にある中込城に見られ、 両者は同じ勢力による縄張りと思われます。ただし、それが伊那部氏なのか武田氏か は不明です。 本丸と二の丸の堀ははっきりくっきり豪壮なものが残っていますが、最後尾とされる 三の丸の堀については不明瞭です。テレビアンテナが建つあたりに、横方向に不自然 な段差があり、おそらくこれが堀を埋めた痕跡ではないかと思われます。規模の大きな 城で、堀もかなり深く、現存遺構が国人領主の伊那部氏によるものとは、ちょっと考え られません。武田氏による改修の手が入っていると見るのが自然でしょう。 さて、春日城を巡っては、伊那部氏の出自が大きな謎です。重慶が天文三年に突如 この地にやってきて土着したとして、わずか十年余で武田氏に降っています。この短い 期間に2代も代替わりしているのも引っかかります。 ここでちょっと気になるのが、前出の中込城のすぐ隣にある棚木城です。この城も 天文の初めに棚木四郎によって築かれたとされ、棚木氏の出自もまた定かではありま せん。あるいはこの時期に、伊那に何かしら勢力図の大きく変わる出来事があったとも 考えられます。 また、伊那部氏は粟田口氏の末裔とありますが、少なくとも平姓の粟田口氏の存在は 確認できません。普通に考えれば、由来となる地名もみられない「春日」は姓にちなむ もので、春日昌吉も重親・重国兄弟とは何らかの血縁関係にあったものと思われます。 このことは、伊那部氏が春日城とともに春日神社を創建していることからも類推できます。 少々敷衍すると、古代和珥氏族の春日臣の一族に「粟田氏」があり、やはり京都粟田口 に由来するとされています。あるいは伊那に土着するにあたり、名字は地名から伊那部 としたものの、権威付けとして本姓の春日を城名に戴き、その脇に春日神社を創建した とも考えられます。ただ、直截的に繋げただけのストーリーなので説得力には欠けている かもしれませんが。 |
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中央右のアンテナから左側が春日城跡。 | |
主郭の空堀。 | |
同上。 | |
主郭のようす。 | |
土塁。 | |
主郭下の帯曲輪。 | |
主郭からの眺望。 | |
二の丸のようす。 | |
二の丸の空堀。 | |
同上。 | |
三の丸の遊具。 | |
三の丸の堀の痕跡と思われる段差。 | |
城山下の中腹にある旧井澤家住宅。 このあたりは「尾花ヶ崎」と呼ばれ、 出郭があったとされています。 |
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尾花ヶ崎へと続く近世伊那街道の伊那部宿。 |