御代田館(みよだ) | |
別称 : 御代田城、星ヶ城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 田村庄司氏か | |
遺構 : 堀跡 | |
交通 : JR東北本線安積永盛駅徒歩20分 | |
<沿革> 文和元年(1352)、北畠顕信や守永親王、田村庄司宗季らの籠る宇津峰城を北朝方が 攻めた際、南朝方が御代田に陣を構えたものの、敗退した。このときに、城館が築かれて いたかどうかは詳らかでない。 応永二年(1404)に笹川御所および稲村公方宛てに提出された「一揆傘連判状」には、 「みよた越前守宗秀」の名がみられ、このころまでには御代田氏が御代田館に拠っていた ものと推測される。ただし、御代田氏の出自など詳細は不明である。 天正八年(1580)、阿武隈川対岸の篠川城を領する二階堂盛義は、蘆名氏や石川氏と 連合して御代田館を攻撃した。しかし、城は容易に落ちず、盛義も戦線を離脱して湯治へ 向かうなど膠着状態となった。これを受けて、翌九年(1581)に佐竹義重が連合軍に参加 し、御代田館を包囲した。攻城戦は2か月におよんだが、伊達輝宗らの仲介によって和議 が成立し、御代田館は陥落を免れた。その後の御代田館については明らかでない。 <手記> 御代田集落は周囲を阿武隈川と水田地帯に囲まれており、当時は浮島のような土地で あったと推測されます。高安寺門前付近から小道を南に入り、民家の脇を抜けると、石碑 があります。そこには「星ヶ城之舊址 天正年間在城」とあり、これが現地で目にした城跡 を示す唯一のものでした。 碑の南側がちょうど主郭跡とみられ、北辺と東辺の堀跡が、畑地や低地としてなんとなく たどれます。おそらく、主郭の一部は阿武隈川に削られているものと推察されます。 主郭の東側には外城の、その北には内出の字が残り、ここまでが城域と考えられます。 そのさらに北には古町や中町といった字もみられ、それなりに規模の大きな拠点であった ことがうかがえます。 |
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星ヶ城之舊址と彫られた石碑。 | |
主郭東辺の堀跡。 | |
主郭北側にある高安寺。 |