宇津峰城(うづみね) | |
別称 : 星ヶ城、雲水峰城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 田村宗季 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、削平地、井戸 | |
交通 : JR磐越西線安子ヶ島駅徒歩5分 | |
<沿革> 南朝に属した守山城主田村庄司宗季によって、暦応三/興国元年(1340)ごろに築かれた といわれる。宇津峰は霊山城と並ぶ南朝の一大拠点となったが、正平二/貞和三年(1347) に北朝方の一斉攻撃を受け、両城とも落城した。 正平六/観応二年(1351)、観応の擾乱の余波で奥州にも再び戦乱が訪れると、宇津峰の 宗季は霊山の伊達宗遠と決起し、北畠顕信や守永親王らと連携して多賀城を攻め落とした。 しかし、翌正平七/観応三年(1352)に吉良貞家が多賀城を奪還すると、顕信らは宇津峰へ 退いて籠城した。これにより、守永親王は宇津峰宮を称したといわれる。 宇津峰城を巡る攻防は、実に1年以上に及んだ。包囲戦は同年八月に始まったとされるが、 城が落ちたのは翌正平八/文和二年(1353)五月四日のことであった。顕信と守永親王は 出羽へ逃れたが、宗季に動静については定かでない。ただし、田村庄司家自体はその後も 辛うじて存続している。宇津峰城も、ここに廃城となったとみられる。 <手記> 宇津峰は須賀川市街の真東に聳える標高678mの独立峰です。南朝方の拠点城となった だけあって、山容は峻険かつ優厳で、当然ながら城跡ファンより一般の登山客で圧倒的に 賑わっています。そういったハイキング客は、西麓からゆったり時間をかけて登ってくるよう ですが、私のような横着者は、北麓から車で残り比高100m弱のところまでショートカットでき ます。 こちらのルートだと、まず「御井戸の清水」という湧水を目にできます。今も滾々と水が湧き 出ていて、飲んでよいのか分かりませんでしたが、コップも置いてありました。その先の斜面 には、腰曲輪と思われる削平地も散見されます。 登り切った先は、主郭とみられる星ヶ城と、西側の千人溜の間の鞍部となります。千人溜は 山上で最も城館跡らしいエリアで、土塁に囲まれた方形の区画があります。ただ、千人溜とは いうものの、1000人どころか100人でも窮屈そうな小さな曲輪です。あるいは、ここに籠れば 千人を相手にするくらいの堅固さという意味なのかもしれませんが、由来は不明です。 千人溜から北西に少し下りると、鐘撞堂と呼ばれる小ピークがあります。削平ははっきりと しないものの、サイドの切岸がはっきり認められます。 星ヶ城は宇津峰の山頂付近を指しますが、こちらも削平は不完全に見えます。親王が頂上 に常にいる必要はないでしょうから、武将クラスの寝所は別のところにあったのでしょう。ここ には「勤王忠烈之阯」の石碑が建てられています。 星ヶ城の東に続く尾根筋は、長平城と呼ばれています。やはり削平は甘いものの、数段に 均されている形跡が見られます。そして、長平城の付け根から南東尾根へ下りる道を行くと、 堀切が1条現れます。時代を考えると、これだけしっかりした堀切というのはかなり先進的な ように感じられます。 南北朝時代の山城というと、拠点城であっても遺構があるのかないのか判然としないような ところが少なくありません。そんななかで、宇津峰は城跡であることが実感できる貴重な史跡 であるように思います。次々登ってくるハイカーが目の前に広がる景色に感動しているなか、 私はだた一人、土を見ながらニヤニヤと悦に浸っているのでした。 |
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和田城跡の麓から宇津峰を望む。 | |
御井戸の清水。 | |
腰曲輪か。 | |
同上。 | |
星ヶ城の切岸。 | |
千人溜の土塁。 | |
千人溜のようす。 | |
同上。 | |
千人溜前からの眺望。 | |
星ヶ城と千人溜の間の鞍部。 | |
星ヶ城のようす。 | |
星ヶ城の「勤王忠烈之阯」碑。 | |
長平城のようす。 | |
長平城の土塁状地形。 | |
長平城南側の堀切。 | |
鐘撞堂を望む。 | |
鐘撞堂の切岸。 |