水谷館(みずがい)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 水谷胤利か
 遺構  : 削平地、土塁
 交通  : JR常磐線小高駅徒歩40分


       <沿革>
           相馬氏庶流水谷氏の居館とされる。水谷氏は相馬氏一門で岡田館主の岡田氏の
          庶流で、15世紀ごろの水谷胤利を祖とするとされる。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、上杉領を避けて相馬領を通過し、帰国
          しようとした伊達政宗に対し、長年伊達氏と対立関係にあった相馬家中では、政宗
          を討ち果たすべしとの意見が巻き起こった。このとき、水谷胤重は父を伊達氏との
          戦いで失っていたにもかかわらず、「相馬家は代々騙し討ちのような真似はして
          こなかった」として異を唱えた。相馬義胤もこれに賛同し、胤重は伊達家側の原田
          宗資と会談し、政宗らの領内通過を保証した。
           戦後、相馬家は幟色を明らかにしなかったとして、慶長七年(1602)に改易を命じ
          られたが、同年中に所領を返還された。相馬領通過の便宜に感謝していた政宗が、
          恩返しで口添えをしたためともいわれる。
           水谷館の廃城時期は不明だが、遅くとも相馬家が中村城に居城を遷すまでの間
          と推測される。


       <手記>
           水谷館は岡田館の南東1.5kmほどのところにあります。西麓の民家脇から細道を
          進むと、城山北側中腹の墓地の駐車場があります。この駐車場は2021年に整備
          されたばかりということで、別に城跡訪問者のためではないでしょうが、ありがたい
          限りです。
           墓地には堀切状の切通しや竪堀のような地形、尾根先の2段の平場などが見ら
          れます。ここも出城か何かのように思えてしまうのですが、浜通りの諸城館の規模
          を鑑みると水谷氏だけそんなに広範囲に城砦を設けているとは考えられません。
          なんとも喉に引っかかる感じですが、墓地を後にして頂上を目指します。切通しを
          右に折れて尾根筋に道が延びているので、登るのに難はありません。
           山頂には高土塁を伴った削平地があります。その周囲には帯曲輪や腰曲輪と
          思しき地形が散見されますが、大きな曲輪は主郭だけのようです。また、かつては
          登山道が少なくとも3本あったようですが、これらがすべて当時からあったものか
          どうかはわかりません。墓地側を少し下ったところに、竪土塁のような地形もあり
          ましたが、やはり城の遺構かは留保が必要です。

           
 山沢館跡を見上げる。
東端の曲輪。 
 その奥の堀状の段差。
堀状地形の向こうの小牛田山神社。 
 主郭のようす。
主郭土塁を副郭から。 
 副郭奥の土塁。


BACK