百地丹波守城(ももちたんばのかみ) | |
別称 : 百地砦、百地城、百地丹波城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 百地氏 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : 伊賀鉄道上野市駅からバスに乗り、 「喰代」下車徒歩5分 |
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<沿革> 伊賀三大上忍として有名な百地氏の居城とされる。名張市竜口と奈良県宇陀市室生竜口の 境にやはり百地氏の竜口城があり、喰代の百地氏はこの竜口百地氏からの派生といわれる。 百地氏の祖は服部氏とも大江氏ともいわれ、判然としない。『日本城郭大系』によれば、『三国 地誌』所収の「一宮黒党次第案」における天文十三年(1544)の「就一宮御頭御役次第之事」 に、「喰代もゝ地殿云々」とあるとされ、このころまでには、百地氏が喰代の有力郷士の1家に 名を連ねていたとみられている。 天正七年(1579)九月十六日、第一次天正伊賀の乱における鬼瘤峠の戦いで、百地丹波守 泰光は植田光次とともに伊賀衆を率い、織田信雄軍を襲って柘植保重を討ち取ったとされる。 同九年(1581)の第二次天正伊賀の乱では、丹波は他の伊賀衆とともに柏原城に立て籠もり、 開城後は行方知れずとなったとされる。柏原城攻防戦の前哨戦である比自山城の戦いに参加 していたか否かは定かでない。 織田氏の伊賀平定により百地砦は廃されたとみられるが、確証はない。ちなみに、百地氏と いうと石川五右衛門の師匠とされる百地三太夫が知られているが、三太夫は江戸時代の講談 で初めて名の見える人物で、その実在性を示す史料は見つかっていない。 <手記> 伊賀忍者の筆頭格の1人とされる百地丹波。その城跡は伊賀上野市街から南東へ久米川を 遡った喰代(ほおじろ)地区にあります。北に向かえば柘植に通じ、周囲には伊賀式の城館が 多数集まっていることから、伊賀衆の一大拠点であったことは疑いないでしょう。山間部ながら 沢水が多く傾斜も穏やかで、生産性も比較的高かったものと思われます。 百地砦は細尾根を利用した城で、先端の青雲寺の麓に駐車スペースがあります。寺の背後 が主郭ですが、青雲寺の境内も曲輪跡とみられ、百地家累代の墓があります。南麓の池では 忍者が水系の忍術を訓練していたとかなんとかいうのは、さすがに憶測でしょうw 主郭は、背部に馬出状の出郭が付属しているのが大きな特徴です。その接合部の両サイド に虎口が開いていて、南側が大手とみられます。主郭背後には堀切が穿たれ、それに沿った 出郭の土塁中央部もまた虎口状に開口していますが、当時からの造作かどうかは不明です。 堀切の奥には広大な削平地があり、屋敷地か何かのように見えますが、土塁は設けられて いません。さらに遡るともうひとつ削平地があり、その北側中腹にも、山裾を掘り込んだタイプの 曲輪が見られます。 このように、百地砦は4つないし5つ程度の曲輪から成る城館であったことが分かります。その うち2つないし3つは、それぞれが伊賀式城館として単独で存在していてもおかしくない規模の 曲輪で、百地丹波守の城が地域の中心的かつサロン的な拠点であったものと推察されます。 |
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主郭の城址碑と説明板。 | |
主郭のようす。 | |
主郭に付属する出郭のようす。 | |
主郭と出郭を隔てる土塁。 | |
出郭接合部北側の虎口。 | |
同じく南側の虎口。 | |
主郭背後の堀切。 | |
同堀切と出郭土塁の開口部。 | |
堀切背後の削平地。 | |
同削平地の背部。 | |
最後部の伊賀式城館タイプの曲輪。 | |
同曲輪の土塁。 | |
土塁脇の虎口。 | |
同曲輪上部の削平地。 | |
主郭南辺のようす。 | |
青雲寺南側の池。 | |
青雲寺。 | |
青雲寺境内にある百地家累代の墓。 | |
青雲寺付近からの眺望。 |