朝倉城(あさくら)
 別称  : 重松城
 分類  : 山城
 築城者: 本山茂宗
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀など
 交通  : 土佐電鉄朝倉神社前電停徒歩10分


       <沿革>
           朝倉城は、本山茂宗(梅渓)によって大永年間(1521〜27)に築かれたといわれる。
          本山氏は土佐北部山間の本山城に端を発し、朝倉城は本山氏の土佐南部平野部へ
          の進出拠点であった。梅渓のもと、本山氏は吉良峰城の吉良氏を滅ぼし、長浜城
          浦戸城を築いて海岸域にまで領土を広げた。
           弘治元年(1555)、梅渓は朝倉城で歿し(没年には異説あり)、跡を嫡男の茂辰が
          継いだ。永禄三年(1560)、茂辰は岳父でもある長宗我部国親に長浜戸の本の戦い
          で敗れ、浦戸城から朝倉城へと逃れた。
           同年、国親が没し、元親が跡を継いだ。元親は、軍事行動と工作の双方を用いて、
          朝倉城周辺の諸城を次々に落とし、包囲網を狭めていった。永禄五年(1562)には、
          ほぼ朝倉城のみが取り残される形となり、元親は3千余の軍を率いて迫った。同年
          九月十六日から3日にわたって繰り広げられた激戦では、両者一進一退の攻防と
          なり、勝敗を決することはできずに元親は軍を引いた。
           その後、元親の工作により寝返る将が絶えず、茂辰は朝倉城維持は困難と悟り、
          永禄六年(1563)一月、城を焼いて本拠地の本山へ撤退した。
           一般に、このときをもって朝倉城の廃城とされる。ただし、後年の検地帳によれば、
          朝倉城山には曲輪ごとに長宗我部氏の武将の屋敷が営まれていたと推定され、
          軍事用ではなく政治施設として利用されていた可能性も考えられる。しかしながら、
          これらの屋敷も時とともに廃れ、山内氏が入国したころには、ほとんどの旧城域が
          荒地または耕地となっていたと思われる。


       <手記>
           朝倉城は高知市の西部、鏡川が平野部に出る喉口部に位置し、西に向かえば
          仁淀川の流域に容易にアクセスできます。朝倉城山はそれほど高くはなく、とても
          なだらかな山ですが、周辺から見ればすぐにそれと分かる目立つ山です。この点は、
          長宗我部氏の居城である岡豊城と似た性質をもった城といえると思います。さらに
          最盛期には、岡豊城をもしのぐ規模を誇っていたといわれています。
           朝倉城へ登るにはいくつかルートがあるようですが、私は路面電車を使い、朝倉
          神社前電停の少し東から登りました。入口にはちゃんと看板が立っていて、向かい
          には朝倉神社もあるため、分かりやすく便利なルートだと思います。
           先に書いた通りなだらかな山なので、さほどの苦もなく本城域まで到達することが
          できます。途中には竪堀や空堀、土塁、土橋の跡と思しき遺構が散見されます。
          詰の段には八幡社と石碑があり、一部土塁が残っています。さらに西へと向かい、
          開けた畑地を抜けると、城の西の守りを担ったと思われる、「茶臼が森」と呼ばれる
          曲輪に着きます。ここには金毘羅宮が祀られています。
           詰の段と茶臼が森を除いては、城のほぼ全域がまんべんなく耕作されているよう
          にみえます。城内の至るところに低い石垣が見られますが、明らかに後世のもので
          しょう。ただ逆に、かなり早い段階で耕地に転用されたものと思われ、そのため当時
          の曲輪をそのまま利用した畑地となり、城の旧態がかなり温存されているようにも
          感じました。
           城の構造については、繰り返す通り峻険な山ではないため、空堀と土塁、そして
          竪堀を幾重にも巡らし、何とかして本城域へ敵が取り付くのを防ごうとしているように
          感じました。少数の兵でこの城を守りきるのは困難であったと思われます。また、
          朝倉城の西側には支城がないのに対し、東側にはまるで朝倉城を中心とした扇形
          の弧線上に並ぶように、多数の支城が配置されています。明らかに長宗我部氏を
          意識し、是が非でも朝倉城に近づけないようにしようとする、執念のようなものすら
          感じさせます。それゆえ、元親にこれら支城群を落とされ、味方が次々に離反する
          状況にあっては、茂辰が城を自焼せざるを得なかったのも仕方のないことといえる
          でしょう。

           
 高知城から朝倉城址を望む。
詰の段のようす。 
 詰の段の土塁。
 茶臼が森を望む。 
 竪堀跡。


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