浅野長政館(あさのながまさ)
 別称  : 浅野長政屋敷
 分類  : 平城
 築城者: 浅野長政
 遺構  : 土塁
 交通  : 京王線武蔵野台駅徒歩10分


       <沿革>
           慶長四年(1599)、甲斐国甲府城主浅野長政は、前田利長とともに徳川家康暗殺の嫌疑をかけられた。
          長政は釈明のため、嫡男幸長に家督を譲り、武蔵国府中車返に隠棲した。暗殺疑惑は、石田三成の謀略
          ともいわれるが、はっきりした背景は分かっていない。
           翌慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、幸長は東軍に属して戦功をあげ、紀州和歌山城37万石を与え
          られた。長政はそのまま家康の直臣として仕えたとされ、同十一年(1606)には幸長とは別に常陸国真壁
          に5万石を与えられた。車返の館は、長政の家臣平田氏の所有となったとされるが、長政の真壁移封まで
          の間の出来事であると推測される。現在も、館跡には平田家の子孫が居住している。


       <手記>
           浅野長政館は、京王線の線路と車返団地の間に位置し、平田家が敷地内に経営する白糸台幼稚園が
          目印となります。館跡は都旧跡に指定されており、西側から幼稚園内越しに土塁を望むことができます。
           車返団地側は多摩川が形成した河岸となっていて、一応崖端の館であったことがうかがえます。また、
          すぐ北には旧甲州街道(品川街道)が走っており、周辺には宿関連の小字が散見されます。選地は中世
          的ですが、長政隠棲以前から何らかの城館が営まれていたのかは不明です。
           館が築かれる契機となった家康暗殺計画嫌疑については、現地説明板では三成の暗躍によるものと
          されています。ですが、私はむしろ家康自身の陰謀ではないかと考えています。もし長政が失脚すれば、
          跡を継ぐ幸長は反三成派の急先鋒として知られているわけですから、三成にメリットはありません。浅野
          家を揺さぶって得をするのは、むしろ隣国の家康のはずです。同じく疑いをかけられた前田家が、関ヶ原
          の戦いでは半ば牙をもがれ、家康に従わざるを得ない状況になっていたことを考えれば、長政についても
          家康が仕掛けたと考えるのが、自然なように思います。
           
 土塁を望む。右手の切れ込みは虎口跡か。
館南側の河岸を上る「おっぽり坂」。 


BACK