山口城(やまぐち)
 別称  : 児泉城、山口氏館
 分類  : 平城
 築城者: 山口家継
 遺構  : 土塁
 交通  : 西武狭山線下山口駅徒歩7分


       <沿革>
           武蔵七党の1つ村山党の惣領村山頼家の一子小七郎家継が入間郡山口に入植し、
          山口氏を称した。山口城は家継の居館にはじまるものとみられている。
           応安元/正平二十三年(1368)、山口高清は武蔵平一揆の乱に加担し、他の参加
          国人とともに河越館に参集した。主人不在の山口城は関東管領上杉憲顕の兵に攻め
          られ、落城した。河越の一揆勢もまもなく敗れ、高清は自刃した。
           永徳三/弘和三年(1383)、高清の父高実と、高清の子高治は再び鎌倉府に反旗を
          翻したが、山口城に追い詰められ、火を放って自害したとされる。高治の子高忠は、
          上杉氏に臣従し、山口城を再建および改修すると同時に詰城として新たに根古屋城
          築いたとされる。
           後北条氏の勢力が伸長すると、山口氏もこれに従ったとみられている。『小田原衆
          所領役帳』にも、山口平六が入間郡山口のうち40貫文を領しているとある。廃城時期
          は天正十八年(1590)の小田原の役前後と推察されるが、詳細は定かでない。


       <手記>
           山口城は柳瀬川の形成する細い谷戸の中途にあり、主郭跡と目されている場所には
          大型衣料品店が立っています。その名も「山口城址前」という交差点の角に城址碑と
          説明板が設置されています。衣料品店の敷地周囲には、城址碑裏に1つ、柳瀬川沿い
          に2つの土塁が残っていて、それぞれ1〜3号土塁と名付けられています。1号は土塁と
          いうより塚のような感じですが、2と3号については西武狭山線の線路に多少削られて
          いるものの、比較的しっかりとした姿を伝えています。とくに3号土塁は、かつてはコの
          字型だったとみられ、今も半分のL字が残っていて見ごたえがあります。
           遺構としてはもう1か所、交差点の北西の稲荷神社と城上公園の間の斜面にも土塁
          があります。私有地なので立ち入ることはできませんが、フェンス越しに眺めることが
          できます。
           そのほかは住宅や店舗となっていて遺構はとどめていませんが、部分的に発掘調査
          が行われています。その結果、平安末の武士の館に端を発するものの、最終的には
          いくつもの曲輪が展開する、ある程度の規模をもった城館だったようです。城址碑の
          はす向かいにあるマクドナルドに、また別個に発掘調査に関する説明板が設けられて
          います。制作したのは市のようですが、敷地内に史跡関連の説明板を置かせるとは、
          マックに対して好感を抱いたのはこれが初めてかもしれません笑
           『日本城郭大系』には、『所沢市史』の引用という形で山口城の要害性を指摘してい
          ますが、細長い谷戸の底という立地からみて、とても私には首肯できません。現に、
          上流の峰上に詰城として根小屋城を築いている訳で、いくら曲輪を増やしたところで
          開発領主の居館の域をでるものではないでしょう。こうして保存や調査がしっかりなさ
          れていることは素晴らしいと思いますが、だからといって城の性格をあまり誇大に鼓吹
          するのはいかがかな、と考えてしまいました。

           
 山口城址碑と説明板。
2号土塁(手前)と3号土塁(奥)。 
 線路越しに2号土塁を望む。
同じく3号土塁を望む。 
 3号土塁近影。
城上公園下の土塁。 
 マック前の説明板。


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