河越館(かわごえ)
 別称  : 河越氏館、上戸陣
 分類  : 平城
 築城者: 河越重隆ないし葛貫能隆
 遺構  : 土塁、堀跡
 交通  : 東武東上線霞ヶ関駅徒歩10分


       <沿革>
           秩父平氏頭領秩父重綱の次男重隆は、長男重弘を差し置いて家督と武蔵国留守所
          検校職をを継いだ。これに不満を抱いた重弘の子畠山重能は、久寿二年(1155)に源
          義平と組んで重隆とその娘婿源義賢を大蔵館に急襲し、殺害した(大蔵合戦)。重隆
          の子能隆は所領を追われ、入間郡葛貫に移り住んで葛貫氏を称した。能隆の子重頼
          は河越氏を称し、武蔵国留守所検校職を回復した。河越館は能隆ないし重頼によって
          築かれたものと考えられる。
           保元元年(1156)の保元の乱に際し、秩父党の「河越、師岡、秩父別当」の三氏が
          義平の父源義朝に従って参陣したことが、『保元物語』にみられる。三氏はそれぞれ、
          重頼とその弟師岡重経、そして別当を称した能隆のことと推測されている。
           平治元年(1159)の平治の乱で義朝が滅び、その遺児頼朝が伊豆へ配流となると、
          重頼は頼朝の乳母比企尼の次女河越尼を娶った。しかし、治承四年(1180)に頼朝が
          挙兵すると、重頼は同じ秩父平氏の畠山重忠(重能の子)や江戸重長らとともに平家
          方につき、頼朝に与した三浦氏の衣笠城を攻め落とした。その後、頼朝が態勢を立て
          直すと、三人ともその幕下に参じた。
           寿永元年(1182)に頼朝の嫡男頼家が誕生すると、河越尼がその乳母に任命じられ
          た。また、同三年(1184)には重頼の娘郷御前が、頼朝の弟義経の正室に迎えられ、
          源氏との結びつきを深めた。
           しかし、翌文治元年(1185)には頼朝と義経の関係が悪化し、義経が追討と受ける
          と、重頼とその子重房も連座して失脚した後、誅殺された。遺領は比企氏が管理した
          が、河越氏の処遇を憐れんだ頼朝によって、本領の河越荘が河越尼に与えられた。
           元久二年(1205)の畠山重忠の乱によって畠山氏が滅んだ後、重頼の次男重時の
          御家人としての活動がみられるようになる。嘉禄二年(1226)には、重頼の三男重員
          が、武蔵国留守所検校職に任じられた。その後、河越氏は大きく重時流と重員流の
          2つに分かれて存続したようだが、双方ともが河越館を拠点としていたのかは定かで
          ない。
           南北朝時代に入ると、重時の後裔直重はいわゆる武蔵平一揆の中心人物となり、
          足利尊氏方として活躍した。だが、尊氏・直義兄弟が死去すると、武蔵平一揆の勢力
          は関東管領上杉憲顕に危険視され、直重は補任されていた相模守護職を解任された。
          応安元/正平二十三年(1368)、憲顕が上洛した隙をついて、直重ら武蔵平一揆の
          一部や宇都宮氏綱、新田義宗らが挙兵した(武蔵平一揆の乱)。武蔵の国人たちは
          河越館へ集結したが、憲顕の甥で娘婿の上杉朝房率いる討伐軍に攻め落とされた。
          直重は伊勢の北畠氏を頼って落ち延び、河越氏はここに滅亡した。その後、河越氏
          の持仏堂が起源とされる常楽寺が館跡に寺域を広げ、繁栄したと考えられている。
           明応六年(1497)、長享の乱に際して扇谷上杉朝良と争っていた山内上杉顕定は、
          朝良の居城河越城を攻略するため、河越館跡に陣城を築いた(上戸陣)。この陣には
          古河公方足利政氏も招かれ、規模の大きなものであったようだが、河越城攻略自体
          は進捗せず、上戸陣は7年にわたって維持されることになった。
           永正元年(1504)、越後守護代長尾能景の援軍を得た顕定は、椚田城実田城
          攻め落としたうえで河越城を囲み、朝良を降伏に追い込んだ。これにより、上戸陣は
          役目を終えて廃されたものとみられる。
           天正十八年(1590)の小田原の役で後北条氏が滅亡すると、同氏重臣大道寺政繁
          が常楽寺で切腹した。政繁は河越城代を務め、その墓も同寺内にあることから、館跡
          が何らかの形で政繁に取り立てられた可能性も指摘されているが、発掘調査からは
          結果を得られていない。


       <手記>
           河越館は、入間川の屈曲部外側の沖積地上に位置しています。太田道真・道灌
          父子が築城したことで知られる河越城とは3qほども離れており、同じ河越と付いて
          いながらまったくの別城です。河越館跡は国の史跡に指定され、河越館跡史跡公園
          として整備されています。
           公園の中心には、発掘によって明らかとなった堀に囲まれた方形の区画が、地表
          復元されています。堀には拡張の跡が認められるものの、直線で工夫はなく、その
          外側を囲うように道路跡も検出されたということから、鎌倉期の武士の単純な居館の
          様相をよく表しています。
           この区画からは、井戸跡や祭祀用とみられる塚状遺構が見つかったものの、母屋
          となるような建物の痕跡は発見されませんでした。このことから、河越館の主郭部分
          は、ひとつ東側の上戸小学校敷地内にあったものと推定されています。
           さらにこの区画からは、山内上杉氏の上戸陣のものとみられる堀跡も検出されて
          います。こちらは鎌倉時代のものと異なり、多くの折れをもった複雑な配置となって
          いるうえに、何度も改修された痕跡があるとのことです。この堀については埋め戻さ
          れていますが、舗装面として地表復元されています。
           公園の北と西にも、それぞれ1つずつ区画があったとみられています。北側の区画
          からはやはり堀跡や掘立柱建物跡、そして複数の井戸跡が見つかっています。これ
          も河越氏時代の館にともなうものと考えられていますが、具体的にどのような用途で
          あったかは確定していないようです。
           西側の区画には、現在も土塁が見られます。土塁のラインを補うと、かなり大きな
          曲輪があったものと思われ、山内上杉氏の上戸陣の遺構であることはほぼ間違い
          ないでしょう。
           このように、河越館は中心部が学校の下になっているものの、現在まで発掘調査
          が行われた限りでも、多大な成果を上げています。今後、鎌倉期を代表する武士の
          館跡、あるいは山内上杉氏の陣城として、さらに解明が進むことが期待されます。

           
 公園の中心にある区画の堀跡。
井戸跡の復元木枠。 
 
 山内上杉氏の上戸陣のものと見られる堀跡の地表復元面。
塚状遺構。 
 北側の区画の堀跡。
西側の区画の土塁。 
 同上。


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