名都借城(なづかり) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 高城氏か | |
遺構 : 土塁、犬走り、堀跡 | |
交通 : JR 常磐線南柏駅よりバス 「東部中学校入口」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 小字城山に城主高城氏の子孫と伝わる居宅がある。大永七年(1527)に古河公方 足利高基が重臣簗田氏の家臣鮎川氏に宛てた感状に、「名都借要害」を攻めたこと が記されている。このことから、当時名都借領主は古河公方と争っていた高基の弟 小弓公方足利義明に属していたものと考えられている。現在の居住者である高城氏 が小金城主高城氏の一族であるとすると、同氏もまた小弓公方と対立していたため、 享禄三年(1530)の小金築城に近い時期に同城を獲得したものと推測される。他方、 「名都借要害」については、前ヶ崎城を充てる説もある。 比定地南向かいの広寿寺は、小金城2代目城主高城胤辰の開基とされる。 <手記> 名都借城比定地は個人宅の敷地ですので、内部の見学は困難です。資料によれば、 もとは方形と思われる土塁や犬走りの跡が残っているそうです。比定地居宅と広寿寺 の間の生活道路は、堀底道のようにも見えます。 『日本城郭大系』には、「果たしてこのような場所に城郭を造る必要があったのか」と 疑問を呈しています。ですが、比定地一帯の台地は、三方を坂川の支脈の緩やかな 谷戸に囲まれており、前ヶ崎周辺を開発するのであれば、もっとも適した土地であるよう に思われます。逆に、たしかに要害性の面ではかなり問題があり、つとめて開発領主 の居館であったと考えるのが妥当といえます。 城としてみた場合、台地の角にあたる対面の広寿寺の方が適地であるといえます。 したがって、もともとは広寿寺までを含めて城地であった可能性も、十分に考えられると 思います。ただ、いずれにせよ、籠って戦うのであれば、前ヶ崎城の方が有利なように は感じました。 |
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名都借城址の丘を望む。 | |
比定地現況。 | |
広寿寺との間の生活道路。 堀跡か。 |
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広寿寺。 |