長森城(ながもり)
 別称  : 切通陣屋
 分類  : 平城
 築城者: 渋谷金王丸か
 遺構  : なし
 交通  : 名鉄各務原線切通駅徒歩5分


       <沿革>
          美濃国長森庄の地頭となった渋谷金王丸によって、文治年間(1185〜90)に築かれたと
         されるが確証はない。
          長森城が歴史の表舞台に登場するのは、美濃守護土岐頼遠が土岐郡大富から長森に
         移った、暦応二年(1339)以降のことである。頼遠は青野原の戦いなどで武名を上げたが、
         光厳上皇の行列に無礼をはたらいたとして誅殺された。
          頼遠の跡は、甥の頼康が継承した。頼康は守護所を川手城に移し、長森城には一族の
         土岐直詮が入った。
          文和元年(1352)、長森城は南朝の軍勢の攻撃に遭った。また応永六年(1399)には、
         大内義弘の反乱に呼応した肥田満康らが長森城に入り、守護土岐頼益は出陣先の和泉
         から帰陣してこれを討った(長森城の合戦)。
          戦国期に斎藤道三が美濃の支配を確立し、川手城を廃して稲葉山城に移ったのに前後
         して、長森城も廃城になったものと思われる。
          江戸時代に入り、享和三年(1803)に美濃国内1万8000石に加増転封となった安藤信成
         は、かつての長森城址に切通陣屋を設け、明治維新まで安藤氏が支配した。


       <手記>
          城跡は、現在の切通観音こと浄慶寺の周辺にあったとされています。陣屋跡も含めて、
         遺構は何も残っていません。浄慶寺に隣接する銀行の前に、中山道の立場でもあった切通
         の縁起と碑が建てられているのみです。
          ただ、中山道が浄慶寺の角で不自然に鉤の手(S字)に折れているあたりは、古い城下町
         の面影を残しているといえるでしょう。


           
 切通観音浄慶寺。
 城はこの周囲にあったとされる。
銀行の前に立つ切通の縁起と碑。 


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