川手城(かわて)
 別称  : 革手城
 分類  : 平城
 築城者: 土岐頼康
 遺構  : なし
 交通  : JR東海道線岐阜駅よりバス
       下川手バス停下車


       <沿革>
          幕命により美濃守護土岐氏を継いだ土岐頼康によって、それまでの居城長森城に代わる
         守護所として、文和二年(1353)に築かれたとされる。当時は、美濃と尾張の国境を成して
         いた木曽川が現在の境川の流路に沿って流れており、川手は東山道に臨むとともに、木曽
         川と荒田川に挟まれた要害・要衝の地であった。
          戦国時代には、戦乱を逃れて下向した公家を多数迎え入れ、西の山口・東の川手と並び
         称されるほどに繁栄した。このころ、川手城防備のため荒田川右岸に加納城船田城
         築かれ、三城一体のような体制が出来上がった。しかし、明応四年(1495)の船田合戦に
         より、川手は一時荒廃した。
          斎藤道三に擁立された土岐頼芸は、兄の頼武を逐って川手に入城し美濃守護となった。
         しかし頼芸は、天文年間(1532〜54)に枝広館に移り、さらに道三によって美濃国から追放
         された。この間に川手城は廃城になったと考えられている。道三は居城を稲葉山城に移し、
         新たに井ノ口に城下町を建設したが、その後も川手の町自体は保護していた。
          織田信長が稲葉山城を岐阜城と改め、新たな城下町を建設すると、川手の町もほとんど
         が岐阜城下に移った。


       <手記>
          川手城は関ヶ原の合戦後の加納城建設にともなって土塁の土などが運び去られ、遺構は
         何も残っていません。済美高校の一角に石碑と案内板があり、城跡と比定されています。
          荒田川を渡った向かい側には、近世加納城址や船田城址があります。


           


済美高校敷地にある石碑。


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