長尾砦(ながお)
 別称  : 長尾台の塁、長尾氏塁
 分類  : 山城
 築城者: 長尾氏か
 遺構  : 土塁、削平地、堀
 交通  : JR東海道本線他大船駅徒歩20分


       <沿革>
           坂東平氏の流れを汲む長尾氏の居館跡と伝わる。長尾氏の草創期については、系図に
          よって諸説あり定かでないが、鎌倉景政の子孫であるという点ではおおむね一致している。
          史料に現れる最初の人物は、治承四年(1180)の石橋山の戦いで源頼朝の家臣佐奈田
          義忠を討ち取り、建保七年(1219)に頼朝の孫の公暁を殺害したことで知られる長尾定景
          である。
           定景の子景茂は、宝治元年(1247)の宝治合戦で三浦党の1人として討たれ、長尾氏も
          没落した。景茂の曾孫景為のころ、長尾氏は関東管領上杉氏の家臣となって勢力を盛り
          返し、景為の子景忠は上野国や越後国の守護代となった。越後守護代家の越後長尾氏
          から、後に上杉謙信(長尾景虎)が出ることになる。
           長尾氏が長尾を去った時期は詳らかでないが、早ければ宝治合戦を境に、遅くとも景為・
          景忠父子の頃のことと推測される。
           『新編相模国風土記稿』によれば、後北条氏の時代には「代官鳥居伝十郎」なる人物
          が住していたとされる。これが正しければ、玉縄城の支砦として機能していたものと推測
          され、『記稿』でも天正十八年(1590)の小田原の役の後に廃されたとする伝承を載せて
          いる。

       <手記>
           後北条氏の中核拠点城として知られる玉縄城と同じ丘陵の北東に、長尾台の舌状台地が
          突き出ています。長尾砦はこの台地上に存在したとされていますが、その範囲や縄張りに
          ついては明確ではありません。
           鎌倉市との境にあたる台地の付け根に、南の峰と呼ばれる小さなピークがあり、その北麓
          には玉縄台から長尾台へ抜ける切通し道があります。おそらく、この切通し道は堀を兼ねた
          古道であると思われます。この切通しを東へ抜けた先には、道を挟み込むように明確な土塁
          が見受けられます。そのあたりから南の峰の斜面を登ると、やはり土塁を備えたわりと広い
          削平地があります。南の峰は、その上にも数段の削平地が階段状に並んでおり、城砦跡で
          あることは明らかですが、比較的単純な構造であることも分かります。
           麓の土塁へと戻り、さらに東へ抜けると、長尾台の舌状台地に出ます。台地の中心付近に
          は「塚畑」と呼ばれる、ごく小規模なピークがあります。塚畑には、その名の通りかつては塚
          があったそうですが、今では失われたのか大部分が畑地になっています。ここからの眺望は
          きわめてすぐれており、ここも城域内であったことは間違いなかろうかと思われます。
           より注目すべきはこの塚畑と南の峰の間の矩形の削平地です。『鎌倉の城郭』ではこれを
          「大空堀」としていますが、『日本城郭大系』では堀跡とみることには懐疑的です。たしかに、
          位置関係からみれば空堀が設けられていて然るべき場所なのですが、堀とみるには不自然
          なほどの幅の広さがあります。堀ではあり得ないとまではいえませんが、南の峰の遺構の
          単純さと比べると、これほど大規模な堀が入用であったとは、やはり考えにくいように思われ
          ます。
           私見としては、ここには長尾氏の居館が置かれていたのではないかと推測しています。
          前後の丘に挟まれた開発領主の居館という条件に、私は1つ心当たりがあります。隣国甲斐
          の郡内領主小山田氏の初期の居館中津森館です。長尾氏も小山田氏も坂東平氏の流れを
          汲んでおり、あるいは似たような立地を選ぶ環境的背景があったのかもしれません。
           塚畑の北には伝物見塚と呼ばれるもう1つの高まり部分があります。畑が3段ほど連なって
          いるのですが、城館の遺構であるかは不明です。そもそも、長尾台の台地はだだっ広く、ここ
          まで城域に含めるとなると、かなりの巨城になってしまいます。出丸のようなものはあったの
          かもしれませんが、綺麗に畑地開発されている今日となっては、表面観察から推察するのは
          困難です。
           『大系』所収の周辺図には、台地の東麓に「陣屋伝承地」と書かれた一画があります。この
          陣屋について、本文では何も触れられていないため、詳細は不明です。あるいは、後北条氏
          時代の砦主の居館が置かれていた可能性も考えられます。この伝承地から台地に上る道の
          途中に、長尾砦の説明板が設置されています。
           『大系』では、居館は陣屋伝承地よりも南西の窪地に置かれていたのではないかとする説
          を載せています。たしかに、当該位置には館地形としてより相応しいと思われる窪地があり、
          旧家とみられる立派なお屋敷があります。ただ、このお屋敷の名字は長尾でも鳥居でもなく、
          城と関係があるのかは不明です。
           長尾氏の居館と後北条氏時代の城砦との連続性について、『大系』では疑問を呈している
          ものの、ややお茶を濁した表現となっています。私は、少なくとも南の峰とその脇の切通し道
          および土塁は、後北条氏時代のものと考えています。この切通しを西に抜けた先には玉縄城
          があり、南の峰が重要なチェックポイントであったことは、充分に推測がつきます。逆に、長尾
          氏が南の峰まで城として使っていた可能性の方が、疑わしいように思われます。

           
 長尾砦跡説明板。
南の峰北麓の切通し道。 
 
 切通し道に付属する土塁。
南の峰再下段の削平地の土塁。 
 削平地のようす。
南の峰と塚畑の間の矩形平坦面。 
 塚畑を望む。
塚畑頂部からの眺望。 
 伝物見台。
伝物見台頂部のようす。 
 『日本城郭大系』にある陣屋伝承地。


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