中川氏館(なかがわし)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 中川氏
 遺構  : なし
 交通  : JR京都線茨木駅ないし阪急京都線茨木市駅
      からバスに乗り、「中河原」下車すぐ


       <沿革>
           江戸時代に豊後国岡藩7万4千石の大名となる中川氏の祖・中川瀬兵衛清秀の出生地と
          される。中川氏は、『寛政重修諸家譜』などでは摂津の名族である多田源氏の末裔を称して
          いるが確証はなく、本貫地はこちらの島下郡福井村中河原ではなく、同じ摂津国の豊島郡
          中川原村(現・池田市)とみられている。ただし清秀については、一般に当地ないし山城国の
          生まれとされる。また清秀の父・重清は、能勢郡高山荘を出自とする高山氏の出身で、中川
          清村の娘婿となったといわれる。
           清秀は池田家中で頭角を現し、同じ池田家臣の荒木村重と共に主君池田知正を追放した。
          さらに織田家臣の高槻城主和田惟政と対立すると、元亀三年(1572)に中河原眼前の白井
          河原で惟政を討ち取り(白井河原の戦い)、その領地であった茨木城の城主となった。


       <手記>
           中河原は西国街道と亀岡街道が交わる要地で、その交差点には「中川清秀由緒地」の碑
          が建っています。清秀がこの地で生まれたとすれば、付近に中川氏の城館があったと推測
          されますが、伝承などはないようです。
           そもそも、中川氏の発祥地である豊島郡の中川原村とこちらの中河原にどのような関連が
          あるのかが個人的に大きく気になります。双方はそれなりに離れており、自然に勢力を拡大
          してこの地まで進出するということは考えにくいでしょう。偶然に同じ地名の土地を与えられた
          のか、中川氏が移り住んだために中河原と呼ばれるようになったのか、どうも釈然としません。
           また、福井村中河原が清秀の根拠地であったとすると、白井河原の戦いでは清秀のもとへ
          荒木勢が集結したことになります。そして、中河原のすぐ南方には郡山城があり、その城主
          郡正信は和田方として馳せ参じており、かなり緊迫した戦いであったと推察されます。

 「中川清秀由緒地」の碑と説明板。
西国街道と亀岡街道の里程標。 


BACK