中山砦(なかやま) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 武川衆か | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : JR中央本線韮崎駅よりバス。 「台ヶ原中」バス停下車徒歩40分 |
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<沿革> 韮崎までの釜無川西岸域を拠点とした武田氏庶流武川衆の砦とされているが、築城時期や 経緯などは不明である。 『甲斐国志』によれば、天正十年(1582)の天正壬午の乱において、徳川方に属した武川衆 が中山砦の守備を任されたとされる。同年八月二十九日には、中山の東の花水坂で北条方と 戦いとなり、武川衆の柳沢信俊・山高信直らが中沢某を討ち取ったとある。 同年十月に乱が終結してから、天正十八年(1590)に徳川家康が関東へ移封となるまでの 間に廃城となったものと推測されるが、詳細は定かでない。 <手記> 釜無川と大武川に挟まれた独立山中山の山頂に築かれた城です。中山自体はとても大きく 緩やかな山で、登山路は探せば何本もありそうですが、私は北東の山裾に沿って走る林道の 脇から登りました。台ヶ原から橋を渡って根小屋を抜け、しばし林道を進むと上の地図の緑点 のあたりに登山道入り口の看板があります。 中山砦は雄大な独立山に選地しているものの、城域は山頂周辺に限られており、両サイド にもう1つずつあるピークには城砦化しているようすがみられません。唯一北東に延びる尾根筋 には曲輪が続いており、結果的にこちらから登ることになったのは幸運だったと思います。 山頂の主郭は仕切り土塁によって南北2つの曲輪に分けられています。双方に別々に虎口 が開いており、どちらがより上位にあるのかは定かではありません。このような構造は新府城 に類似しているようにも思われます。 主郭の北東と南側の一段下には腰曲輪が付属し、その外側は横堀となっています。主郭の 東側面にも横堀が設けられ、その途中にある切れ込みから下には竪堀が伸びています。この 構造は、今度は白山城との類似性を想起させます。南北の尾根筋については、堀切を穿って おしまいなのですが、北東側尾根については前述のとおり、堀切の先にまた2、3段の腰曲輪 が続いています。さらにその先にもちょいちょい遺構っぽく見えてしまう箇所があったのですが、 判断はつきかねます。 帰りで道を間違えてしまったのですが、北東側は上の地図のとおりとにかく尾根筋に沿って 下りさえすればいずれ鉄塔に行きつき、下りきれば林道に出ます。私が下った道は根小屋南 の沢谷戸に出るもので、途中は堀底道となっていました。根小屋が中山砦の城下集落と考え れば、おそらくこれが大手道であると思われます。またしてもめっけもんでした(笑)。 総評として、中山砦は山の規模のわりに小さく、小さいわりに技巧的な構造をしているといえ ます。おそらく、信玄の時代には烽火台程度だったものが、勝頼が新府城を築いた際に白山城 と合わせて改修を施されたのではないかと推測しています。 |
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主郭北区画のようす。 | |
主郭北区画の土塁。 | |
主郭北区画の虎口。 | |
主郭を南北に分ける仕切り土塁。 | |
主郭南区画のようす。 | |
主郭南区画の虎口。 | |
主郭南区画下の横堀。 | |
主郭南区画下の腰曲輪。 | |
主郭北区画北方尾根の二重堀切。 | |
二重堀切1条目。 | |
二重堀切2条目。 | |
北東尾根腰曲輪。 | |
主郭東側面の横堀。 | |
横堀の切れ目から竪堀が落ちるところ。 | |
北東尾根の堀切。 | |
北東尾根堀切先の腰曲輪その1。 | |
その2。 | |
根小屋南の沢谷戸の登り口。 大手か。 |