勿来関(なこそ) | |
別称 : 菊多関 | |
分類 : 関所 | |
築城者: 平安朝廷 | |
遺構 : なし | |
交通 : JR常磐線勿来駅徒歩20分 | |
<沿革> 勿来関は歌枕や奥州三関として知られているが、当時の史料にその名を記したものは 見つかっていない。『太政官符』の承和二年(835)の項に、「白河菊多両剗を置きて以来 今に四百年」とみられ、この菊多にあった関を勿来関とする見方が、古くから一般に受け 入れられてきた。しかし、勿来関の所在は、実存したかどうかも含めて、今もなお不明で ある。 実際に磐城浜街道を通り、勿来関を詠んだ人物として源義家がいる。永保三年(1083) に陸奥守として下向した義家は、その途上で「吹く風を なこその関と おもへども 道もせに ちる 山桜かな」と詠じたとされ、この歌は『千載和歌集』に採用されている。したがって、 勿来関が存在したとすれば、11世紀にはすでに廃されて久しい状況であったものと推察 される。 <手記> 江戸時代から観光名所として、いわき市にあったと言われ続けてきた勿来関ですが、 今日ではひとまず「どこにあったかわからない」とする点では一致しているようで、非実在 説もあるようです。勿来町や勿来駅といった名称も、関があったという従来説にちなんで 付けられたもので、もともと勿来という地名があったわけではありません。 勿来とは古語で「来るな」の意。一般に北方の蝦夷に対して来ないでくれと言っている ものと解釈されていますが、これも確証があるわけではありません。関の跡とされている 場所は、南北が細尾根となった小豆袋状のピークで、古代の山道が尾根筋を通っていた ことを鑑みれば、十分あり得る地形ではあります。周囲には義家が弓の端で掘った弓弭 (ゆはず)の清水だの弓掛の松だのといった古蹟っぽいものがありますが、いずれも後世 に付会したもので、そもそも義家が立ち寄ったのがここかどうかも定かではないでしょう。 私見としては、「来るな」の相手が蝦夷であれば、この地が前線であった期間がさほど 長いとは思えないので疑問です。『太政官符』にいう「400年前に置かれた菊多」の関が 勿来関であれば、記紀以前の設置ということになりこちらも不自然です。 ここで、個人的に気になっているのが、宮城県利府町にある勿来関跡の候補地です。 こちらは多賀城の4kmほど北の谷間に位置しています。ここを破られると、多賀政庁が 丸裸となってしまうため、蝦夷に対して「来ないで!」というならこちらの方が相応しいと いえるでしょう。また多賀城付近には、ほかにも「末の松山」や「宮城野」といった歌枕が あります。陸奥国司として多賀城に下った中央官人が、周辺の景色を歌枕としてせっせと 歌に詠み、勿来関もその1つだったと考えると、状況証拠としては辻褄が合うように感じ ます。義家もまた陸奥守として下向したので、多賀城に着いてから1首詠んだとしても、 なんら不思議ではないでしょう。 |
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勿来関跡碑と義家銅像その他。 | |
弓弭の清水。 | |
弓掛の松。 |