七沢城(ななさわ) | |
別称 : 七沢要害 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 上杉憲忠 | |
遺構 : なし | |
交通 : 小田急線本厚木駅よりバス 「七沢病院」バス停下車 |
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<沿革> 関東管領上杉憲忠によって築かれたとされる。憲忠の父憲実は、永享十年(1438)の 永享の乱で鎌倉公方足利持氏を弑したため、憲忠も鎌倉公方を継いだ持氏の子成氏に 恨まれていた。宝徳二年(1450)、山内上杉氏家宰長尾景仲は先手を打って成氏を攻め たが、成氏方の巻き返しにあって糟屋荘に退いた。七沢城はこのときに築かれたとみら れる。『鎌倉大草子』にある同年五月の書状には、「七沢要害」として登場する。 その後、扇谷上杉氏が相模を領することになり、扇谷上杉持朝の子朝昌が七沢城主と なった。このため、朝昌は七沢氏を名乗ったともいわれる。長享二年(1488)、山内上杉 顕定は1000騎を率いて鉢形城を発し、扇谷上杉氏の本拠地糟屋荘を一気に陥れようと した。このとき河越城にいた扇谷上杉定正は、手勢200騎を率いて一昼夜で駆け付けた。 二月五日、七沢南の実蒔原で両軍は衝突し、数で劣る定正勢が奇跡的な勝利を収めた。 しかし、この一戦で朝昌は討ち死にしたとも伝えられ(近年では死んでいないという説が 有力)、また山内上杉方の書状に「彼要害没落」などとあることから、七沢城は落城した ともいわれている。 現地の説明板には、その後朝昌の子朝寧(定正の次男となっているが、誤り)が城主と なったとあるが、根拠は不明である。『皇国地誌残稿』には、「永正二年(1505)北条長氏 上杉朝良カ拠ル所ノ本村七沢城ヲ攻ム 朝良之ト戦フテ利アラズ走リテ八菅山ニ拠ル」と する土地の口伝が載せられている。伝承が正しければ、七沢城は北条早雲(伊勢宗瑞) によって攻め落とされ、廃城とされたものと考えられる。 <手記> 七沢城は、玉川の源流大沢川の谷戸に突き出た丘陵上の城です。現況、城山一帯は 七沢リハビリテーション病院となっていて、遺構は消滅したようです。病院玄関の北側や、 麓の交差点などに碑や説明板が設置されています。また病院へ向かう途中には、城に ちなむ地名として「水汲沢」の説明板が別にあります。 水汲沢や七沢というくらいですから、周辺は水の豊かな土地だったのでしょう。病院の 北麓に「七沢城址」というバス停がありますが、城跡ではなく七沢温泉への最寄なので 気を付けましょう。 |
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七沢城址現況(七沢病院)。 | |
玄関北側の石碑と説明板。 | |
水汲沢の説明板。 |