鳴海城(なるみ)
 別称  : 根古屋城
 分類  : 平山城
 築城者: 安原宗範
 遺構  : 不詳
 交通  : 名鉄本線鳴海駅徒歩5分


       <沿革>
           応永年間(1394〜1427)に、幕臣の安原宗範によって築かれたと伝わる。宗範の死後は、一旦廃城
          になったとされる。天文年間(1532〜54)には、織田信秀に属する重要な拠点として再び使われていた。
           天文二十一年(1552)に信秀が死去すると、城主の山口教継は今川義元に城ごと寝返った。教継は
          鳴海城を息子の教吉に任せ、自身は鳴海北西に位置する桜中村城に拠って、信秀の跡を継いだ信長
          に抵抗した。
           翌天文二十二年(1553)、信長は鳴海城を奪還すべく800の兵を率いて攻め寄せたが、途中山口氏
          の兵と遭遇して合戦に及び(赤塚合戦)、勝敗の付かないまま双方引き上げた。永禄三年(1560)ごろ、
          山口父子は義元に謀反の疑いをかけられ、駿府で切腹を命じられた。鳴海城には、義元の重臣岡部
          元信が入った。
           同年、信長は城を囲うように丹下砦善照寺砦中島砦を築いて補給を絶ち、攻城を試みた。同様に
          包囲された大高城とともに鳴海城を救うべく大軍を率いて出陣した今川義元は、桶狭間の戦いで戦死
          した。次々と敗走する今川勢にあって、元信の守る鳴海城だけはその後も落ちなかった。元信は、義元
          の首と交換という条件でようやく城を開き、駿河へと帰陣した。
           戦後は佐久間信盛・信栄父子が城主となったが、天正八年(1580)に父子ともども織田家から追放
          された。その後の城主は不明だが、城そのものは同十八年(1590)頃まで存続していたと伝えられる。
           また、いつごろのことかは不明だが、『尾張志』には東西七十五間、南北三十五間の規模があったと
          記されている。


       <手記>
           鳴海城は西に天白川、南に扇川を望み、眼下に街道と宿場を扼する要地にあります。城址碑と城址
          公園が通りを挟んで別々の場所にあり、両方を城域に含む東西に伸びた城であったと考えられます。
          城址公園は台地の先端にある小丘陵の頂部にあたり、主郭はこちらではないかと思われます。
           北に丹下砦、東南に中島砦、そして城と同じ峰続きに善照寺砦があり、これら対の城を築かれながら
          も、岡部元信はよく城を守り通りしたものだと感心します。
           遺構は特には残っていないように見受けられます。公園や石碑、街道や宿場の様子に往時を偲ぶの
          みです。


           
 鳴海城址石碑。
鳴海城址公園。 


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