大高城(おおだか)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 花井備中守か
 遺構  : 曲輪跡、土塁、空堀、土橋
 交通  : JR東海道線大高駅徒歩10分


       <沿革>
           永正年間(1504〜21)に、尾張守護土岐頼康の家臣花井備中守によって築かれたと
          伝えられるが、詳しい築城年代や経緯は不詳である。またそれ以前の文明年間(1469
          〜86)に、水野貞守の弟為善が分家して大高城に入ったともいわれる。ただし、大高城
          の水野氏については不明な点が多い。大高城水野氏ははじめ今川氏に属していたが、
          後に織田信秀に降った。
           天文十七年(1548)、今川方の野々山政兼が攻め寄せたが、逆に政兼が戦死した。
           信秀の跡を継いだ信長から離反した鳴海城主山口教継によって、大高城と沓掛城は
          攻略され今川氏の持ち城となった。永禄二年(1559)、今川家臣朝比奈輝勝が城主と
          なり、このころ信長によって丸根鷲津などに砦が築かれ大高城攻囲網が敷かれた。
           翌三年(1560)には、救援のため包囲を突破して鵜殿長照が入城し、そのまま城将と
          なった。さらに、大軍を率いて進軍していた今川義元の先遣として、大高への兵糧運び
          入れを命じられた松平元康(後の徳川家康)は、これを無傷で成功させ功名を成した。
          兵糧運び入れの時期や方法については諸説あるが、これ以降元康も大高城将に加え
          られた。元康ら大高城兵は、翌未明に丸根・鷲津両砦を攻撃し、これらを落とした。
           まもなく桶狭間の合戦が起こり、義元が戦死すると、元康はじめ城将は皆引き上げた
          ため、再び城は織田氏のものとなった。やがて、元康が岡崎城で独立して徳川家康と
          名乗り信長と同盟を結ぶと、大高城は役目を終え廃城となった。


       <手記>
           大高城は、天白川に望んで突き出した半独立丘に築かれています。当時は北に海が
          迫っていて、鳴海城と連携して戦略上の枢要にあったと思われます。頂上に2段の曲輪
          跡が認められ、最上段には八幡社が祀られています。登城路は北側にあり、上る途中
          に石碑と案内板があります。
           丘が地続きとなっている頚部には、空堀と土橋が残されています。案内板等ではこれ
          を本丸と二の丸を分けるものとしていますが、個人的には八幡社のある上段の曲輪が
          本丸で、それを囲む下段の曲輪が二の丸、堀と土橋は本城域と外郭部を分けるものと
          考えた方が自然ではないかと思います。
           大高駅から少々離れているのが難点ですが、桶狭間の戦いの重要な舞台の1つです
          から、訪れる価値は高いものと思います。


           
 大高城址石碑。
本城域景観。 
左手が上段。一段下がって最も広い曲輪が広がる。 
 空堀と土橋。


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