白石城(しろいし) | |
別称 : 根白石館 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 白石三河か | |
遺構 : 曲輪跡、堀、土塁 | |
交通 : 仙台市営地下鉄泉中央駅よりバス 「町頭」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 白石三河の居城と伝わる。白石三河について、『封内風土記』には「桃生郡主首藤山内氏族」と あり、『伊達家世臣家譜』には「白石三河宗頼は国分能登守某の弟を世嗣とし これが三河宗明で ある」とある。これが正しければ、白石氏は当初首藤山内氏流であったが、後に国分氏の一門と なったことになる。国分能登守については、『平姓国分氏系図(佐久間版)』にみられる国分宗政 ないしその子とされる盛氏を指すものと思われる。 白石城と白石氏の詳しい動向については不明であるが、天正十九年(1591)に伊達晴宗の正室 久保姫(政宗の祖母)がこの地に移住していることから、このときまでには城としての役目は終えて いたものと推測される。 <手記> 白石城は、七北田川とその支流山田川に挟まれた丘陵の角に築かれた城です。現在は根白石 地区と呼ばれていますが、これは同じ仙台藩領の白石(現白石市)と区別するために改称された もので、元は白石村といったそうです。 城跡は現在宇佐八幡神社境内となっています。また、城内には久保姫(栽松院)の墓や三十三 観音堂もあります。登城路である神社参道階段下の脇に、説明板が設置されています。 遺構として圧巻なのは、上の地図にも切れ込み状に描かれている北辺の堀と土塁です。とくに 空堀はかなりの深さと幅があります。一在地領主の居館としてはかなりの規模であるため、国分 氏一門の城としてかなりの労力がつぎ込まれたものと拝察されます。この空堀と土塁は西辺にも 巡っていますが、規模と残存状況は北辺には劣ります。 その他の遺構としては、東辺下に帯曲輪状の削平地が認められます。また、神社本殿裏手に 仕切り様の溝がみられます。ほぼ単郭の城ながら、城内は結構な面積があるので、区画分けの ために設けられた溝とも考えられますが、そもそも城の遺構なのかどうか判断がつきかねます。 同様の仕切り構造は、同じ国分領内の本郷館にもみられます。 城主の白石氏については、上掲史料の内容が正しいとすれば、もともとは山野内城主とされる 「山内首藤刑部少輔(須藤定信)」の一族ではないかと類推されます。『仙台領古城書上』等に よれば、首藤氏は天正十二年(1584)に結城七郎に居城を攻め落とされ滅んだとされています (同十三年のこととも)。結城七郎についてもいかなる人物か定かでありませんが、国分宗政と 同一人物ないし国分氏一族とする説があります。国分氏の出自について、平姓千葉氏流、藤姓 長沼氏流そして藤姓結城氏流とする説があり、現在では少なくとも戦国時代の国分氏は後二者 (長沼氏も結城氏も同じ小山氏流)とする見方が有力です。とするならば、山野内城が結城七郎 (ないし国分宗政)に落とされた後に、首藤一族である白石氏も国分氏に屈してその一族を後嗣 に迎えるよう強いられたとする推測は、一応の辻褄が合うように思われます。 |
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白石城址を東から望む。 | |
城址説明板。 | |
城内に鎮座する宇佐八幡神社。 | |
北辺の空堀。 | |
北辺の土塁。 | |
西辺の土塁。 | |
城内の仕切り様の溝。 | |
東辺下の帯曲輪と思われる削平地。 |