山野内城(やまのうち)
 別称  : 山村館、山邑館
 分類  : 山城
 築城者: 大河戸氏
 遺構  : 曲輪跡、堀、土塁
 交通  : 仙台市営地下鉄泉中央駅よりバス
       「中山大橋」バス停下車徒歩10分


       <沿革>
           鎌倉時代の開発領主大河戸氏によって築かれたと推測されているが、確証はない。
          大河戸氏は藤姓秀郷流で武蔵国大河戸御厨を本願地とするとされ、文治五年(1189)
          の奥州征伐での功により、陸奥国宮城郡山村郷の地頭職を得た。
           南北朝時代に入ると、大河戸氏は南朝に属し、山村宮(正平親王)を擁して転戦した。
          山村宮の系譜については詳らかでないが、『言海』を編纂したことで知られる大槻文彦
          は、後醍醐天皇の孫とされる宇津峰宮(守永親王)の子ではないかとしている。正平七
          /観応三年(1352)、山村宮は多賀国府をめぐる戦いで討ち死にした。山野内城もほど
          なく北朝方に攻め落とされたものとみられ、大河戸一族は一名坂城小曾沼城で抵抗
          を続けた。翌正平八/文和二年(1353)一月、両城も陥落し、大河戸氏は没落した。
           山野内城にはその後、正平十/文和四年(1355)に山内首藤(須藤)定安が入ったと
          伝えられる。定安は奥州山内首藤氏の一族と考えられるが、同氏の本拠地は桃生郡に
          あり、詳しい系譜は不明である。
           天正十二年(1584)、首藤刑部定信は結城七郎に山野内城を攻められ、敗れて杭城
          に退いたが、追い詰められて自害した。陥落の際、城内の女子供は城の北の七北田川
          に身を投げ、水底からガスが噴き出るようになったことから、その場所は万人渕と呼ばれ
          るうになった。
           その後の山野内城については定かでない。

          
       <手記>
           山野内城は、七北田川とその支脈に挟まれて突き出た細い峰の上に築かれています。
          先端下から中腹の阿弥陀堂まで階段が設けられています。この阿弥陀堂は、もともとは
          山麓にあったものと遷したそうで、現在の場所は城の東端の曲輪跡と考えられます。
           そこからは尾根筋に直登して、もう1つ腰曲輪を越えると、山頂の曲輪に到達します。
          山頂は東西2つの曲輪から成っていて、西が主郭と思われます。主郭の南には支尾根
          が伸びていて、その先にやや広い曲輪が設けられています。主郭の背後にも腰曲輪が
          あり、旧図によれば深い鞍部を越えたその向こうにもう1つピークがありました。そちらも
          城域に含まれていたようですが、現在は無残にも重機で切り崩されて消滅しています。
           山野内城を攻め落とした結城七郎についてですが、文献やサイトによっては彼の諱を
          朝光としているものが散見されます。たしかに、結城七郎といえば結城氏の祖となった
          御家人結城朝光が有名ですが、いかんせん時代も場所も違いすぎます。おそらくは、
          結城氏ないし同族の長沼氏流とされる国分氏の一族ないし家臣に連なる人物であった
          ものと推測されます。

           
 山野内城址近望。
阿弥陀堂の建つ削平地。 
 その上の腰曲輪。。
山頂東側の曲輪。 
 山頂西側の曲輪。
 おそらく主郭と思われます。
主郭西の支尾根の曲輪。 
 主郭背後の腰曲輪。


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