ノイラーテン山城 ( Felsenburg Neurathen ) |
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別称 : ラーテン城 | |
分類 : 山城( Felsenburg ) | |
築城者: 不詳 | |
交通 : クーアオルト・ラーテン駅徒歩25分 (途中渡し船利用) |
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地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 築城の経緯については詳らかでない。13世紀中ごろに、マイセン辺境伯が隣接する ボヘミア領との境目の城として築いたとする説もあるが、確証はない。1261年のローマ 教皇ウルバヌス4世の書簡に、マイセン司教に従わない周辺領主の1人としてテオドリクス・ ド・ラーテン(Teodoricus de Raten)の名があり、これが間接的にノイラーテンの城を示す 初出とされている。明確に史料に現れるのは1289年のことで、ボヘミア王ヴァーツラフ2世 とマイセン辺境伯ヴェッティン家一族の小フリードリヒの間の取り決めにおいてである。 ただし、2つ存在するラーテンの城のうち(「ノイラーテン」とは「新ラーテン」の意)、ここで 挙げられている城砦(Castrum)がどちらを指しているのかは不明である。この取り決めに みえる「ラーテンの城」は、ボヘミア王の所有となった。 1361年の神聖ローマ皇帝カール4世の文書において、初めてラーテンの「2つの」城の 存在が記載され、両方ともボヘミアの所有であることが確定された。1406年にはボヘミア 貴族のヒンコー・ベルカ・フォン・ドゥーバが城を購入した。ドーナ城伯家とマイセン城伯家 の争いであるドーナの乱(Dohnaische Fehde)の戦後処理を経て、1408年にラーテンの 南約4㎞のところにあるケーニヒシュタイン城がザクセン選帝侯の所有となると、ラーテン はボヘミア領からみてザクセン領に突出した不安定な土地となった。1428年、ケーニヒ シュタイン城代フリードリヒ・フォン・デア・エルスニッツはラーテン城を制圧し、選帝侯から 城主に任じられた。この後、10年にわたってフリードリヒとベルカ・フォン・ドゥーバ家との 争いが続き、1438年にアルブレヒト・ベルカ・フォン・ドゥーバが城を奪い返した。しかし、 翌年には選帝侯の支援を受けたフリードリヒが再度城を奪った。アルブレヒトはその後も 城の奪還を試みるもことごとく失敗し、最終的に1441年の和約で城のフリードリヒ領有が 確定した。1459年のエーガー条約でボヘミアとザクセンの境界も決定され、ラーテンは ザクセン選帝侯領となった。 エルスニッツ家は改めて城主家に任じられたようだが、次第に盗賊騎士化していった。 1467年には、選帝侯領を共同統治していたエルンストとアルブレヒトの兄弟が、ハンス・ フォン・デア・エルスニッツ討伐の兵を送って城を囲んだ。包囲戦は1年に及び、ハンスは 城を棄てて落ち延びた。1469年には、火災によってノイラーテン山城は焼け落ちた。 17世紀前半の三十年戦争に際して、スウェーデン軍の侵攻を恐れた周辺住民が、ノイ ラーテン山城跡に避難したと伝えられる。城跡には、このときの話に関連すると思われる スウェーデンの間(Swedenraum)と呼ばれる一画がある。しかし、このころには建物跡も ほぼ朽ち果てていたと推測されている。 <手記> Felsenburgは直訳すると「岩城」となりますが、意味合いとしては険しい山城といった 感じなので、表題のごとく「ノイラーテン山城」と訳出しました。いつごろからFelsenburgと いう呼称になったのかは、調べてもよく分かりませんでした。 ノイラーテン山城は、「ザクセンのスイス」と呼ばれるエルベ川の峻険な峡谷の一角に あります。これに対する古ラーテン城(アルトラーテン城)は、同じ峰の先端付近にあり ます。ノイラーテン山城へは駅から渡し船に乗って対岸に渡り、アルトラーテン城を横目 に尾根の裏側から山道を登ります。渡し船からはっきり見えるアルトラーテン城に登って しまうと、行き止まりでノイラーテン山城跡には辿り着けないので注意が必要です。ノイ ラーテン山城の脇には有名なバスタイ橋があるので、「Bastei」の標識に従って歩けば 大丈夫です。表題の写真の右側に写っているのがバスタイ橋、左側の石柱群が城跡 です。 山道の途中にせり出す巨岩の数々や、時折開けるエルベ沿いの景色にみとれつつ 登ると、バスタイ橋でクライマックスを迎えます。その手前にある、「ラーテン岩舞台園 (Felsenbühne Rathen)」というテーマパークのような有料の公園が、ノイラーテン山城 の跡です。中に入ると、林立する岩の柱の間に鉄製の梯子を渡してあり、歩いて回って 景色を楽しむパークとなっています。最初は気付かなかったのですが、何を隠そうこの 鉄梯子は城跡の柱穴を利用していて、当時は岩の林の上に塔や館が立ち、鉄梯子の 代わりに木橋が架かっていたようです。 一般の観光客はそれに気づいてか知らずか、崖下が透けて見える鉄梯子をおっかな びっくり渡りながら、奇岩巨岩の広がるザクセンのスイスの景色を楽しんでいます。小生 の感想としては、はっきりいって狂気の城です。鉄梯子だからまだ良いものの、これが 当時の再現よろしく木橋だったら、ちょっと渡れたかどうかわかりません。たしかにこれ 以上ない天険とはいえますが、ここで生活したり合戦したりとなれば、木橋の上を鎧を 着てあっちこっち走り回るというのは、かなりの覚悟か諦観がないとできないように思い ます。 そう考えると、登山客が誰しも目を奪われるバスタイ橋にも、引けを取らない貴重で 興味深いポイントであると思います。残念なことに、私の手持ちのガイドブックには記載 されていませんでしたが。 ちなみに遺構としては、各所の柱穴の他にはほんの一部の礎石部分と、建物の形に 合わせて岩を削った跡が残っているくらいです。 |
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岩と岩を結ぶ鉄梯子。 当時は同じ箇所に木橋が架かっていました。 |
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塔が建っていた岩。 今では絶景ポイントの1つ。 |
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居住塔跡。 | |
主殿跡。 地階および出入り口のあった部分の岩が凹状にえぐれています。 |
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主殿地階の復元柱組。 中央の階段が埋門のようになり、上に建物がありました。 |
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岩を削って作った階段跡。 | |
円形の塔跡。 | |
円形の塔跡の礎石遺構。 | |
城の中庭(Burghof)を望む。 | |
鉄梯子の鉄材が架かる当時の柱穴。 | |
謎のキリスト像の立つ岩。 これも物見台として使われていたとかいないとか。 |
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おまけ①:城跡から望むバスタイ橋。 | |
おまけ②:城跡から望むザクセンのスイスの風景。 |