アルトラーテン城 ( Burg Altrathen ) |
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別称 : ラーテン城 | |
分類 : 山城( Höhenburg ) | |
築城者: 不詳 | |
交通 : クーアオルト・ラーテン駅徒歩15分 (途中渡し船利用) |
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地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 築城の経緯については詳らかでない。1261年のローマ教皇ウルバヌス4世の書簡に、 マイセン司教に従わない周辺領主の1人としてテオドリクス・ド・ラーテン(Teodoricus de Raten)の名があり、これが間接的にラーテンの城の存在を示す初出とされている。ただ、 このラーテンの城が、アルトラーテン城を指すのか、峰続きにあるノイラーテン山城を指す のかは不明である。 1361年の神聖ローマ皇帝カール4世の文書において、初めてラーテンの「2つの」城の 存在が記載され、両方ともがボヘミアの所有であることが確定された。1406年、ボヘミア 貴族のひとりヒンコー・ベルカ・フォン・ドゥーバが、城を購入した。1408年、ドーナ城伯と マイセン辺境伯が争った「ドーナの乱(Dohnaische Fehde)」の戦後処理を経て、ラーテン から南へ4㎞ほどのところにあるケーニヒシュタイン城がザクセン選帝侯の所有となると、 ラーテンはボヘミア領からみてザクセン領に突出した不安定な土地となった。ヒンコーの 死後、アルトラーテン城はヒンコーの3男ベネシュが継いだ。 1426年(28年とも)、ケーニヒシュタイン城代フリードリヒ・フォン・デア・エルスニッツが アルトラーテン城を制圧し、選帝侯から城主に任じられた。この後10年にわたってフリード リヒとベルカ・フォン・ドゥーバ家との争いが続き、1438年にベネシュの子アルブレヒトが 城を奪い返した。しかし、翌年には選帝侯の支援を受けたフリードリヒが再度城を奪った。 エルスニッツ家は改めて城主に任じられたが、次第に盗賊騎士化していった。1467年 には、選帝侯領を共同統治していたエルンストとアルブレヒト兄弟がハンス・フォン・デア・ エルスニッツ討伐のため兵を送って城を囲んだ。包囲は1年に及び、ハンスは城を棄てて 落ち延びた。1469年には破城が行われた。 1888年、ドレスデンの実業家エドゥアルト・ザイフェルトが廃墟となっていた城を購入し、 1893年にかけてネオゴシック様式で再建した。第二次世界大戦後は、ドイツ民主共和国 (DDR)の研修施設として利用された。1990年のドイツ再統一後は個人所有となり、2001 年にゾンマー家が購入した後、ホテルに改装され現在に至っている。 <手記> アルトラーテン城は、エルベ川とその支脈アムゼルグルントバッハ川の合流点に延びた 尾根の先端に築かれています。尾根伝いに500mほど登ると、ノイラーテン山城跡があり ます。アルトラーテンを直訳すると「古ラーテン」、ノイラーテンは「新ラーテン」となります。 額面通り受け止めれば、こちらの方が先に築かれたとみるべきなのでしょうが、石造の アルトラーテン城よりも木造だったと推測されているノイラーテン山城の方が、直感的には 様式が古いように感じられます。いずれにせよ、文献上も「ラーテン」の城がどちらを指して いるのかは判別不能のようです。 現在はホテルやカフェ・レストランとして営業しています。このホテルの特徴は、主塔の 最上階も客室になっているという点です。主塔はそもそも住むための施設ではないので、 いくら古城ホテルといえどもわざわざ主塔を客室に改装しているところはほとんどないよう に思います。したがって、お殿様も味わったことのない主塔での一夜を楽しめるという点 では、貴重かもしれません(笑)。ちなみに、この最上階の部屋でも一泊120ユーロ程度 なので価格もお手頃です。 カフェ・レストランのみの客でも主塔の途中までは登らせてもらえます。ラーテンは保養 の町として売り込んでいて、眼下にはエルベ川沿いののどかな景色が広がります。 |
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カフェテラスから城の建物を望む。 | |
主塔を見上げる。 | |
主塔からの眺望。 |