新潟城(にいがた)
 別称  : 船岡城
 分類  : 平城
 築城者: 新発田重家
 遺構  : なし
 交通  : JR越後線白山駅徒歩10分


       <沿革>
           天正九年(1581)、御館の乱の恩賞に不満を抱いていた揚北衆の新発田重家は、
          上杉景勝に反旗を翻し、新潟津を奪って新潟城を築き、一族の新発田綱之を城将に
          入れた。家督を継承したばかりで西や南に戦線を抱えていた景勝は、しばらくの間は
          積極的な対処ができなかった。
           天正十一年(1583)、上杉勢の攻撃により新潟城は炎上するも、陥落は免れた。
          同年に重家の本拠新発田へ進軍した景勝勢は、放生橋の戦いで大敗している。
           天正十三年(1585)、藤田信吉の計略により宮島三河守に不意を衝かれ、新潟城
          はついに落城した。新発田重家の乱は同十五年(1587)に鎮圧され、城もこのとき
          までに廃されたものとみられる。


       <手記>
           新潟城の位置については、現在の白山神社周辺といわれていますが、はっきりとは
          わかっていません。私が訪れたとき、神社参道に「幻の新潟城」と題されたパネルが
          設置されていて、それによるとひょうたん池の奥の鳥居左手にあったとあり、それが
          正しければ、燕喜館付近が主郭だったものと思われます。
           新潟県民会館などがある文化ゾーンは、古地図によれば近代まで川底だったようで、
          当然ながら信濃川河口に面した城だったとみられます。対岸には沼垂城も築かれ、
          当時は重家の居城の新発田城まで、水運が容易に通じていたものと推測されます。
          逆に両城が抜かれたことで、重家は海運を通じたメインの補給ルートを失い、深刻な
          物資不足に陥ったといわれています。
           遺構は何もないので、ひとまず白山神社を参拝するのみです。岡山大学の『池田家
          文庫』に新潟城の絵図が残されていて、そこには「天守」と書かれた3層の櫓建造物
          が描かれています。とはいえ、臨時の補給拠点にそのような高層建築が必要だった
          のか、個人的には疑問に感じます。

           
 白山神社山門。
燕喜館。 
主郭はこの付近にあったものか。 
 ひょうたん池。


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