新発田城(しばた)
 別称  : 菖蒲城、浮舟城、舟形城、狐尾曳ノ城
 分類  : 平城
 築城者: 新発田氏か
 遺構  : 櫓、門、石垣、土塁、堀
 交通  : JR羽越本線新発田駅徒歩20分


       <沿革>
           揚北衆の1つ新発田氏の居城である。新発田氏は佐々木氏一族加治氏の分流で、
          源頼朝の挙兵に従った佐々木秀義の三男佐々木(加治)盛綱を祖とするとされるが、
          いつごろ分かれて新発田に居を置いたのかは詳らかでない。新発田氏の名が史料
          に現れるのは、応永三十〜三十三年(1423〜26)の応永の乱に際してとされ、この
          ころまでに新発田城も築かれていたものと考えられる。
           戦国時代には、新発田氏は揚北衆最大勢力の1つにまで成長した。天正六年(15
          78)の御館の乱に際し、新発田長敦は上杉景勝を支持して活躍したものの、十分な
          恩賞が得られないまま失意のうちに病没した。跡を継いだ弟の重家は、同九年(15
          81)に上杉家に反旗を翻した。家督を相続して間がなく、西や南にも戦線を抱えて
          いた景勝は、しばらくは積極的な対抗策を採れずにいた。
           天正十一年(1583)、景勝は新発田城へ進軍するも、放生橋の戦いで大敗した。
          しかし、後ろ盾であった蘆名盛隆と伊達輝宗が死去し、また同十三年(1585)に補給
          拠点であった新潟城沼垂城が藤田信吉の計略によって落城すると、重家は一転
          して物資の窮乏に悩まされるようになった。
           天正十五年(1587)、豊臣秀吉の内諾を受けた景勝がついに新発田城を囲んだ。
          景勝は重家の助命を条件に開城を勧告したが、重家はこれを拒絶した。十月二十五
          日、重家らは城内で最後の宴を開くと、一同討って出て華々しい最期を遂げた。
           上杉景勝の治世下での新発田城主については詳らかでない。慶長三年(1598)、
          上杉家が会津へ転封となると、溝口秀勝が堀秀治の与力大名として、新発田地方
          6万石を与えられた。秀勝はまず五十公野城に入り、居城の地として重家の城跡に
          新規築城することにした。
           秀勝は慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍に属し、戦後に所領を安堵された。
          新発田城の築城普請はその後も継続され、完成したのは3代藩主宣直の承応三年
          (1654)であったとされる。溝口家は江戸時代を通じて転封されることなく、12代を
          数えて明治維新を迎えた。


       <手記>
           今でこそ、真っ平らな平地の中に建っている印象の新発田城ですが、南北を中田
          川と新発田川に挟まれ、かつて周囲はかなりの湿地帯であったと思われます。また、
          城の北や西に舟入町や小舟町といった地名があることからも察せられる通り、水運
          を通じて容易に新潟の海までアクセスできたことが知られています。
           今に残る遺構は、当然ながら江戸時代のものです。とくに本丸は切り込みハギの
          石垣で固められ、3代溝口宣直のときの総仕上げの造作ではないかと思われます。
          新発田氏時代の城域は不明ですが、本丸の北に古丸があり、溝口氏入部以前の
          本丸跡とされています。
           現状は、本丸・古丸・二の丸の大部分が自衛隊駐屯地となっており、本丸南面の
          一部が城址公園として開放されています。新発田城といえば、2004年に復元された
          三方向に破風と鯱をもつ珍しい三階櫓がシンボルですが、この櫓自体は駐屯地の
          敷地内にあり、見学も近づくこともできないようです。城址公園内にもう1つ復元され
          た辰巳櫓の方は、冬季を除いて無料で入館できます。本丸で唯一の現存建造物で
          ある表門や、旧鉄砲櫓の位置に移築された現存二の丸隅櫓などと合わせて、園内
          の見どころとなっています。

           
 本丸三階櫓。
旧鉄砲櫓の位置に移築された現存二の丸隅櫓。 
 帯曲輪の土橋門跡。
右から辰巳櫓・本丸表門・二の丸隅櫓。 
 本丸表門。
本丸内側から見た土塁。 
右手奥に二の丸隅櫓。 


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