庭瀬城(にわせ) | |
別称 : 芝場城、撫川城、庭瀬陣屋 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 三村元親 | |
遺構 : 堀跡 | |
交通 : JR山陽本線庭瀬駅徒歩5分 | |
<沿革> 永禄二年(1559)、成羽の鶴首城主三村家親が、宇喜多氏に備えて築いたのがはじまりと される。当時は地名から芝場城(こうげじょう)と呼ばれていた。 天正三年(1575)に毛利氏が三村氏を滅ぼすと、芝場城は備中の「境目七城」の1つとして 取り立てられ、毛利家臣井上就正と桂景信が城将として派遣された。同十年(1582)に織田 家臣羽柴秀吉が備中へ侵攻すると、就正は城に籠って激戦となったが敗退した。ちなみに、 毛利家中には井上光兼の子・孫および光兼の弟有景の孫と3人の井上就正がいるが、この 就正は有景の孫で、父は元有とされる。戦後は宇喜多氏の領有となったが、城主は不明で 一時廃城となったともいわれる。 慶長五年(1600)、宇喜多騒動で宇喜多家を辞去していた元重臣の戸川逵安は、徳川家 に仕えて功を挙げ、2万9200石を与えられて庭瀬藩を立藩した。同七年(1602)には庭瀬城 を改修し、城下町を整備したとされる。 延宝七年(1679)、4代安風が9歳で夭折すると、庭瀬藩戸川家は無嗣断絶となった。安風 の弟逵富は幼くして1千石を分知されていたが、4千石を加増されて5千石の交代寄合として 戸川家の名跡存続を許された。逵富は、庭瀬城の西半に撫川陣屋を造営して政庁とした。 庭瀬城の本丸と二の丸はこのときに放棄され、天領の代官所が置かれたともいわれるが、 詳しい扱いは定かでない。 天和三年(1683)、久世重之が関宿藩より5万石で移封され、庭瀬藩が再興された。石高 は同じだが、江戸に近い関宿から庭瀬への転出は左遷に近い。背景には、重之が比較的 若年で要地の関宿藩主を継いだことがあると推測される。重之は庭瀬城跡の旧二の丸に、 撫川陣屋とは別に新しく庭瀬陣屋を建造した。 重之は貞享三年(1686)に丹波亀山藩へ転封となり、藤井松平信通を挟んで元禄十二年 (1699)に板倉重高が2万石で入封した。以後、板倉家が11代を数えて明治維新を迎えた。 <手記> 庭瀬城と撫川城はもとは不可分一体の城郭だったようで、庭瀬陣屋と撫川陣屋は直線で 150mくらいしか離れていません。項目を分けるべきか1つにすべきか考えたのですが、江戸 時代にはまったく別の領主の政庁であったことから別々としました。旧城が庭瀬村と撫川村 に跨っていたということなのでしょうが、2万石と5千石の陣屋が隣合わせで、周囲には武家 屋敷なども建ち並んでいたでしょうに、よくもまぁ記録に残るようなトラブルが発生しなかった ものだと感心します。あるいは、両家で対立を回避するために、かなり詰めた取り決めなどが あったのかもしれません。 付近の集落の道路はかなり細くてやきもきしますが、孤島のような弁財天の北側に訪城者 用の駐車場が用意されているので安心です。弁財天の南側一帯が旧庭瀬城二の丸の庭瀬 陣屋跡とされ、清山神社境内に庭瀬城跡の石碑が建っています。清山神社は、板倉家5代 勝喜が祖先にあたる板倉重昌・重矩父子を祀って創建したものです。 撫川陣屋と比べるとはっきりした遺構に乏しいのですが、庭瀬地区を巡る水路のほとんど は、庭瀬城の堀跡由来とみてよいでしょう。光明寺の北東側が大手門跡とされ、水路を渡る 橋に大手と刻まれています。 |
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弁財天と庭瀬城跡説明板。 | |
清山神社境内の庭瀬城跡碑。 | |
清山神社境内から弁財天を望む。 | |
弁財天前の水路。 堀跡と思われます。 |
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大手門跡。 |