鶴首城(かくしゅ)
 別称  : 成羽城
 分類  : 山城
 築城者: 河村秀清か
 遺構  : 曲輪、石積み、土塁、堀、虎口
 交通  : JR伯備線備中高梁駅からバスに乗り、
      「成羽」下車徒歩30分


       <沿革>
           文治五年(1189)の奥州合戦での戦功により成羽の地頭職を得た河村四郎秀清によって
          築かれたと伝えられる。ただし、秀清自身が備中へ下向した可能性は低いとみられる。
           一般には、戦国大名三村氏前期の居城として知られる。三村氏は常陸国筑波郡三村郷を
          本貫とする小笠原氏の一族とされるが、確証はない。鎌倉時代に信濃国筑摩郡洗馬荘地頭
          となり、その分流が備中国星田郷の地頭に補されたとみられている。明徳四年(1393)に、
          管領斯波義将が備中守護細川満之に充てた書状に三村信濃入道が成羽庄を侵している旨
          が記されているとされ、三村氏が成羽を本拠としたのはこれ以降と推測されるが、鶴首城を
          いつごろ居城としたのかは定かでない。
           16世紀前半の三村宗親によって、三村氏は備中の有力国人として大きく成長した。宗親の
          代までに、鶴首城も三村氏の詰城となっていたものと考えられる。現地の説明板によれば、
          天文二年(1533)に宗親の子家親が城を堅固に改修したとされる。
           永禄四年(1561)、家親は毛利氏の支援を受けて、庄高資の松山城を攻め落とすと新たな
          居城とし、鶴首城を弟の親成に預けた。家親期に三村氏は最盛期を迎え、毛利氏の影響下
          にはあったものの、独自に勢力を拡大して戦国大名化した。
           永禄九年(1566)に、家親が宇喜多直家の命を受けた遠藤秀清・俊通兄弟により美作国
          興善寺で狙撃・暗殺されると、家親の子元親が跡を継ぎ、親成・親宣父子がこれを補佐した。
          同十二年(1569)から元亀二年(1571)の間に、庄高資・勝資父子が一時的に松山城を奪取
          したが、この間の元親は鶴首城の親成のもとに拠っていたと推測される。
           天正二年(1574)、毛利氏が宇喜多氏と講和すると、元親は親の仇とて受け入れられず、
          織田氏と通じて毛利から離反した。親成父子は強く諫言したものの容れられず、逆に討手を
          向けられそうになったため毛利氏のもとへ身を寄せた。
           翌天正三年(1575)三月までに、鶴首城はじめ松山城以外の三村氏の城は悉く毛利勢に
          攻め落とされたが、このときの城主は不明である。同年五月二十二日に松山城も陥落して
          元親が自害すると、毛利氏によって親成父子が鶴首城主に返り咲いた。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで毛利家が防長2国に減封されると、親成は禄を失って
          城を出た。子の親宣は後に福山藩水野家に仕えている。代わって、改易となった宇喜多家
          の家臣であった岡越前守(家俊)が徳川家康に召し出されて成羽に6千石を与えられた。
           慶長二十年(1615)、越前守の子平内が大坂の陣で豊臣方で参戦したため、戦後に父子
          とも切腹を申し付けられた。2年後の元和三年(1617)、3万5千石で若桜藩から加増・転封
          された山崎家治は、鶴首山の麓に成羽陣屋を設けて藩庁とした。遅くともこのときまでに、
          早ければ岡越前守が入封した際に、鶴首城は廃城となったとみられる。


       <手記>
           成羽市街を見下ろす比高250mほどの錐形の山が鶴首城跡です。地図で見るとたしかに
          鶴の首のように突き出ていますが、真上から眺める手段のなかった時代によく的確に名前
          を付けられたものだと思います。
           城山へは、成羽小学校裏手の公園から登山道が延びています。登りはじめてまもなくの
          太鼓丸跡には、概略の縄張り図も設置されています。比高はなかなかですが一本道のうえ
          それほど急勾配はないので、着実に歩けば無問題です。まず行き着く鞍部から峰先側には
          出丸があるともいわれています。
           鞍部から山頂へ向けて尾根筋を上がると、右手に小さなお社のある削平地が現れます。
          その上も2段ほどに切り分けられているように見えますが、遺構かどうかは判別が困難です。
          そこからまたしばらく登ると、現地の標識で馬場、縄張り図で七ノ壇とされる2段の腰曲輪が
          あり、ここが主城域の先端部とみられます。
           馬場の上が主郭部で、一ノ壇の前後を帯曲輪状に、二ノ壇と三ノ壇が取り巻いています。
          一ノ壇の切岸は至って低いものの、二ノ壇の虎口や三ノ壇側の切岸には石積みがみられる
          のが大きな特徴です。当時は一ノ壇全体が石塁で囲まれていた可能性もあるでしょう。
           三ノ壇の背後には四ノ壇と五ノ壇が続き、その奥は2条の堀切で断絶されています。さらに
          峰を下ると「武士池」という池があるようなのですが、少し下ってはみたものの見える気配が
          なかったため諦めました。水の手と呼ぶには少々遠すぎる気がします。
           また、現地の縄張り図には記されていないのですが、三ノ壇南東尾根にも広めの腰曲輪が
          あります。その南西辺には開口部が見受けられ、あるいは搦手口とも考えられます。
           全体として、三村氏の風格に相応しい規模をもった城といえるでしょう。ただし、いかんせん
          かなり高所にあるため、関ヶ原戦後に岡越前守が入封した際に廃城となったのではないかと
          推測されます。

           
 三村氏居館跡から鶴首山を望む。
太鼓丸跡。 
 尾根筋の小社のある削平地。
尾根筋の腰曲輪状削平地。 
 七ノ壇跡。
 現地の標識では馬場跡。
七ノ壇から三村氏居館跡を見下ろす。 
 二ノ壇の虎口。
二ノ壇のようす。 
 二ノ壇から見た一ノ壇の切岸。
 画面中央に石積みの痕跡が見えます。
一ノ壇の虎口と石積み跡。 
 虎口脇の櫓台状土塁。
一ノ壇のようす。 
 同上。
三ノ壇。 
 三ノ壇から本丸を望む。
 中央に石積みが見えます。
四ノ壇。 
 四ノ壇の切岸。
五ノ壇。 
 五ノ壇背後の二重堀切の1条目。
2条目。 
 三ノ壇南東尾根の曲輪。
同曲輪南西辺の開口部。 
搦手虎口か。 


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