野本氏館(のもとし)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 野本基員か
 遺構  : 土塁
 交通  : 東武東上線東松山駅からバスに乗り、
      「柏崎」下車徒歩7分


       <沿革>
           鎌倉時代の御家人野本氏の居館と伝わる。野本氏は、京の武士片田基親の子基員が平安
          時代末期に当地へ移り住み、野本左衛門と名乗ったのがはじまりとされる。片田氏は、藤原
          北家魚名流藤原利仁の後裔を称した。『新編武蔵国風土記稿』等では、利仁が武蔵守として
          下向した際の居館とする伝承が載せられており、館跡に南接する将軍塚古墳は、鎮守府将軍
          であった利仁にちなんで名づけられたとされる。
           基員は貞観元年(1232)に没し、下河辺政義の子時員が養子となって跡を継いだ。時員は、
          養父基員の存命中に、摂津国の守護職を務めている。しかし、時員の子の代以降の野本氏に
          ついては、動静が定かでない。
           館跡に立つ無料寿寺には、建長六年(1254)銘の銅鐘の拓本が残されている。また、同寺は
          当初「野本寺」と呼ばれていたということから、早ければ時員の代に野本氏は何らかの理由で
          野本郷を去り、館跡に寺院が建立されたものと推測される。


       <手記>
           野本氏の館跡とされる無量寿寺は、南方に都幾川の氾濫原を望む崖端にあります。門前に
          標柱や説明板があり、そこには『記稿』にある、寺の周辺を描いた江戸時代のイラストも掲載
          されています。
           遺構としては、本堂のすぐ裏に土塁がわずかに残っています。この土塁はかなり高さがあり、
          かつては堀が二重に巡っていたとされることと合わせて、野本氏の動向が絶えて以降に増築
          されたもののように見受けられます。ただ、それが誰によるものかというと、今のところまったく
          の謎です。残存土塁のさらに北には段差があり、一見すると外側の堀跡のようにも思えます
          が、そうすると二重の土塁の間隔があまりに狭いので、こちらは最近の造作でしょう。
           寺門の外には、今も見上げるように大きな将軍塚古墳が横たわっています。とても目立つ
          うえに雄々しいのですが、とくに城砦に用いられた形跡はなさそうです。ここで、野本基員が
          この古墳の脇に居館を構えたのは、関東には当時まだ古墳の権威のようなものがいくらか
          残っていたのではないかという想像がはたらきました。基員が藤原利仁の後裔を称し、利仁
          が関東で武功を挙げた伝承を古墳に絡め、この地に土着する権威付けとしたのではないかな
          と、勝手に推測を敷衍させていました。
           これとは別に、やはり気になるのが「二重目の堀を築いたのは誰か」という点です。ここで、
          個人的に注目したいのが北東1.5kmほどのところにある松山城です。武州松山城は、地域の
          拠点城として戦国時代に何度も攻囲戦を経験しています。そのなかのいずれかの際に、陣城
          として野本氏館跡の無量寿寺が取り立てられ、外側にもう一重空堀が設けられたと考えると、
          合理的な説明ができるように思います。松山城と野本氏館の中間近くには万松寺館があり、
          こちらも松山城の付城ないし支砦のように感じられます。大軍をもって松山城を攻めたのは、
          後北条氏ないし越後上杉氏となりますが、そのどちらかの軍勢がこの台地上に展開して陣を
          張っていたとする推察は、そこまで荒唐無稽とは言えないでしょう。
           また『鎌倉大草紙』によれば、永享十二年(1440)の結城合戦に際し、関東管領上杉憲実が
          唐子・野本に陣取ったとされています。あるいはこのときに取り立てられたとも考えられます。
          いずれにしても、二重目の堀については、在地領主の城館というより陣城としての造作とみる
          のが妥当と思われます。

           
 無量寿寺門前の館跡標柱。
別の場所に設置されている説明板。 
 本堂裏手の土塁。
そのさらに奥の段差。 
遺構ではなく後世の造作か。 
 将軍塚古墳。


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