怒田城(ぬた)
 別称  : 沼田城、吉井の城山
 分類  : 平山城
 築城者: 佐原義連
 遺構  : 不詳
 交通  : 京急久里浜線北久里浜駅徒歩20分


       <沿革>
           衣笠城の支城群の1つである。築城時期は不明。『源平盛衰記』には、治承四年(1180)
          の石橋山の戦いで源頼朝が敗れ、頼朝に賛同した三浦一族を追撃して平家軍が攻め寄せ
          たとき、和田義盛が衣笠城より怒田城の方が要害の地であるとしてこちらに籠ることを提案
          したものの、三浦義明によって退けられたとする話が載せられている。これが正しければ、
          怒田城は治承四年までには築かれていたことになる。衣笠城はまもなく平家方に攻め落と
          されたが(衣笠城合戦)、怒田城で合戦があったかは不明である。
           鎌倉幕府が成立すると、頼朝挙兵時からの功臣である三浦一族は隆盛を極め、衣笠城を
          中心とした鎌倉型の大城郭群が形成された。怒田城も平作川対岸の佐原城とともに海口を
          押さえる役割を担ったものと推測される。三浦氏は、宝治元年(1247)の宝治合戦で没落し、
          衣笠城も廃された。怒田城の廃城時期は定かでないが、遅くともこのときと考えられる。


       <手記>
           怒田城は、平作川に突き出た丘陵の先端付近に築かれています。現在、城跡という以上
          に吉井貝塚として知られ、そして整備されています。発掘調査も行われ、公園化もなされて
          おり、堀跡と土橋跡が地表表示されています。
           ただ、先史の考古学者からみれば城の遺構などはお邪魔でしかないようで、説明板には
          「貝塚を壊す堀と土橋」と見出しがつけられ、悪意すら感じられます^^;
           今の城跡周辺は見渡す限りの宅地ですが、かつては眼下は久里浜湾の入り江だったよう
          です。北西麓に舟倉という地名が残っていることからも分かる通り、衣笠城の支城群で海に
          もっとも近い怒田城は、おそらく直接船で城に乗り入れることができるいわゆる海賊城だった
          ものと思われます。
           現地説明板によれば、現在一見して主郭とみられるところは、もともと舌状台地の先端では
          なく、その先にもフック状に峰が延びていたのだそうです。宅地造成や線路建設にともなって
          削られたのだそうですが、そうなると、怒田城は現在の空堀跡から先の小さな単郭の城では
          なく、その先にももっと城域が広がっていた可能性も考えられると思われます。
           ちなみに、『日本城郭大系』には「沼田城(ぬまたじょう)」とありますが、その読みの出典は
          不明です。仮に沼田とする表記があったとしても、あるいは沼田小早川氏のように、「沼田」
          とかいて「ぬた」と呼んでいたのではないかとも考えられます。

           
 空堀と土橋跡。
 石畳の部分が土橋跡。
城内のようす。 
 
 城跡から衣笠城方面を望む。
 かつては線路のあたりにも峰が延びていたそうです。


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