佐原城(さわら)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 佐原義連
 遺構  : 不詳
 交通  : 京急久里浜線北久里浜駅徒歩20分


       <沿革>
           衣笠城主三浦義明の末子十郎義連は、佐原城を築いて移り住み、佐原氏を称した。義明
          ら三浦一族は、源頼朝の挙兵に応じたものの、治承四年(1180)の石橋山の戦いで頼朝が
          敗れると、衣笠城を平家方に攻め落とされた(衣笠城の戦い)。この戦いで義明は討ち死に
          したが、佐原城でも戦闘があったのかは不明である。
           鎌倉幕府が成立すると、三浦氏は北条氏と並ぶ草創の功臣として勢力を誇った。最盛期
          には、佐原城は他の支城群とともに鎌倉型の広義の衣笠城を形成していたものと考えられ
          ている。
           義連は建仁三年(1203)に没し、跡を子の盛連が継いだ。三浦氏と北条氏は、その後幕府
          内で対立するようになるが、そのようななかで盛連は、三浦義村の娘矢部禅尼と結婚した。
          矢部禅尼は執権北条泰時の前妻であったため、北条得宗家と縁戚となった。盛連の子盛時
          も、北条時員の娘を妻としている。宝治元年(1247)に、ついに三浦氏と北条氏の間で宝治
          合戦が勃発すると、盛時ら佐原一族は惣領三浦泰村に与せず矢部禅尼と泰時の孫の執権
          北条時頼に従った。同合戦で泰村はじめ三浦一族のほとんどが死に絶え、盛時が三浦氏の
          名跡を継ぐことを許された。
           しかし、その所領は三浦半島南部に限られ、盛時以外の佐原氏の一族の多くは、義連の
          代に所領として与えられた会津へと下向した。佐原城はこのときに廃城となったものと推測
          されるが、盛連のころには、すでに活動の拠点は会津に移行しており、佐原城は廃れていた
          とする見解もある。


       <手記>
           佐原城は、平作川沿いの細長い丘陵の先端付近に位置しています。当時は、眼下まで海
          の入り江が入り込んでいたと考えられています。川の対岸には似たような立地条件の怒田城
          があり、衣笠城の最盛期にはこの両城で海側からの侵入に備えていたものと推測されます。
           現在、城内の大部分は畑地となっています。先端部分は、横浜横須賀道路や工業団地と
          なっています。北西麓から登ってくる道路は、佐原城址の付け根付近を切通し状に横断して
          います。おそらく、かつてはここに城の南限の堀切が設けられていたものと思われます。畑と
          なっている主郭部には目立った造作の跡はみられず、おそらく丘の上に居館を設け、左右の
          谷戸を耕地として切り開いていたものと考えられます。
           この切通しのすぐ脇に、今では樹木に隠れて少し分かり難いのですが、明治建立の城址碑
          があります。

           
 佐原城址碑。
城内のようす。 
 
 堀切跡と思われる切通し道。


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