横尾城(よこお)
 別称  : 尾引城、三日城
 分類  : 山城
 築城者: 横尾采女正か
 遺構  : 曲輪、土塁、石塁、堀
 交通  : 上田駅よりバス。「横尾」バス停下車徒歩10分

       <沿革>
           宝永年間(1704〜11)の『信濃國絵図』に、横尾采女正の城跡と記載されている。
          横尾氏は応永七年(1400)の大塔合戦に禰津氏の麾下としてみられるが、その出自
          は定かでない。
           『真田町誌』によれば、横尾采女正信光は天文十六年(1547)に上田原の戦いで
          戦死し、遺児紋次郎ほか横尾一族は上州へ移り住んだとされる。しかし、上田原の
          戦いを天文十六年とするのは『甲陽軍鑑』にみられる誤りであり(実際は翌十七年)、
          同書では史実とは逆に武田氏の勝利としている。双方に武将級の死者が出ている
          ため、采女も討ち死にしたとしても不思議ではないが、当時の小県郡は義清が掌握
          していたので、戦後に横尾氏が落去しなければならない理由は見当たらない。采女
          の生死についても一次資料上からは確認できない。
           天文二十年(1551)、武田家に身を寄せていた真田幸隆が戸石城を謀略で奪取し、
          旧領を回復した。横尾氏はこれ以降に幸隆によって駆逐されたのではないかとする
          見方も有力である。いずれにせよ、横尾氏が去った後の横尾城の動向については
          不明である。


       <手記>
           横尾城は真田盆地の北から細く突き出た尾根先のピークに築かれています。南麓
          には横尾集落が、そして東には同じく横尾氏の城とされる内小屋城と、同氏の館が
          あったと推定されている信綱寺の窪地があります。
           山容はそれほど険しくなく、山頂の主郭までの斜面に段々畑のように多くの曲輪が
          連なっているのが特徴です。曲輪群には2〜3ヶ所石積みもみられますが、当時どれ
          くらい用いられていたかは判断しかねます。また、削平地・石積みともに後世に畑地
          として転用された部分もあるでしょうから、どこまで城の遺構とみるかも留保が必要
          と思います。
           主郭には神社があり、手入れもされていてとても見やすい城跡です。主郭の背後
          には、一番の見どころといえる堀切群があります。現地には二重堀切とあるのです
          が、私が見たところ三重ありました。過大申告ならともかく、少なめに見積もるとは、
          なんとも謙虚に感じます(笑)。堀切群の先にもう1つ堀切があり、さらに細尾根を少し
          北上すると、最後尾とされる曲輪と堀切があります。
           真田郷のなかでも中心的な城郭の1つだったと思われますが、真田というネーム
          バリューに比べると、つつましい規模と構造の城のように感じます。

           
 横尾城跡遠望。
腰曲輪群の石積み。 
後世のものか。 
 腰曲輪群の1つ。
同上。 
 同じく石積み跡。
主郭を見上げる。 
 主郭のようす。
主郭下の虎口。 
 主郭背後の三重(二重)堀切を俯瞰。
三重(二重)堀切跡。 
 尾根筋の一条堀切。
最後尾の曲輪。 
 最後尾の堀切。


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