内小屋城(うちこや)
 別称  : 打越城
 分類  : 平山城
 築城者: 横尾氏か
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀
 交通  : 上田駅よりバス。「横尾」バス停下車徒歩10分

       <沿革>
           史料にはみられないが、横尾城主横尾采女正信光によって築かれたとする説が
          有力である。横尾氏は、応永七年(1400)の大塔合戦に禰津氏の麾下として名が
          みられるが、その出自は定かでない。
           『真田町誌』によれば、采女は天文十六年(1547)に上田原の戦いで討ち死にし、
          遺児紋次郎ほか横尾一族は上州へ移り住んだとされる。しかし、上田原の戦いを
          天文十六年とするのは『甲陽軍鑑』に見られる誤りであり(実際には翌十七年)、
          同書では同戦いを史実とは逆に武田氏の勝利としている。双方に武将級の死者が
          出ているので、采女も討ち死にしたとしても不思議ではないが、当時の小県郡は
          義清が掌握していたので、戦後に横尾氏が落去するというのは不自然である。
          采女の生死についても、一次資料上からは確認できない。
           天文二十年(1551)、武田家に寄寓していた真田幸隆が戸石城を謀略で奪取し、
          真田郷の旧領を回復した。横尾氏はこれ以降に幸隆によって駆逐されたのでは
          ないかとする見方も有力である。いずれにせよ、横尾氏が去った後の内小屋城に
          ついては不明である。


       <手記>
           内小屋城は、洗馬川の2本の支脈に挟まれた細尾根上にあります。北の窪地
          には信綱寺があり、内小屋城址も寺域に含まれているようです。極端に細長い
          尾根なので、縄張は自然と単純な連格式に限定されます。先端側の堀切が寺の
          黒門に利用されていて、もっともはっきりした遺構の1つとなっています。
           そこから東の付け根側に向かうと墓地があり、その裏手に主郭と思われる土塁
          で固められた数段高い曲輪があります。
           主郭の背後も急峻な切岸と堀切があり、その奥には不明瞭な曲輪・堀切・竪堀
          がそれぞれ1か所ずつ見受けられます。先述の通り地形的制約からさほど凝った
          つくりではなく、時代もそれほど下らないと思われます。
           内小屋城のすぐ西には横尾城(尾引城)があり、信綱寺のある窪地はこの2つ
          の城に囲まれて堅固かつ絶好の館地形を成しています。個人的には、おそらく
          横尾氏の居館は信綱寺境内付近に営まれていたものと拝察しています。

           
 堀切跡に立つ信綱寺黒門。
同上。 
 黒門からさらに先端側のようす。
主郭の土塁。 
 主郭のようす。
主郭背後の堀と切岸。 
 堀切跡か。
最後尾の曲輪か。 
 竪堀跡か。


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