越智弾正忠館(おちだんじょうのちゅう)
 別称  : 越智氏館
 分類  : 平城
 築城者: 越智氏か
 遺構  : 不詳
 交通  : 小田急線本厚木駅よりバス
       「清源院前」バス停下車徒歩3分


       <沿革>
           永正九年(1512)に北条早雲(伊勢宗瑞)が岡崎城を攻め落とした際、恩賞として越智
          弾正忠が三田郷を与えられた。『日本城郭大系』では、弾正忠の館を清源院周辺に比定
          しているが、確証はない。同院の寺伝によれば、天文二十一年(1552)に伽藍が全焼し、
          越智出雲守が復興した。出雲守について、弾正忠に連なる人物とも考えられるが、確証
          はない。
           越智氏については、中津川対岸の依知郷に出自をもつとみられている。『新編武蔵国
          風土記稿』には、依知郷の住人として依知小太郎某の名があり、妙伝寺の寺伝などでは
          越智三郎左衛門直重の名がみられる。『上依知村誌略』では、依知(越智)直重を依知
          一帯の領主であった本間氏の一族としているが、確証はない。
           三田郷は古くは「散田」と書き、源頼朝の側近安達盛長の所領であった。あるいは盛長
          の屋敷も付近に構えられていた可能性も考えられる。盛長の墓は、同市飯山の金剛寺に
          あるとされる。
           清源院の寺伝によれば、同院の開基は伊東祐親とされているが、祐親は伊豆の豪族
          であり、三田郷との間にどのような関係があったのかは不明である。


       <手記>
           館跡に比定される清源院は、中津川の河岸上に建つほぼ方形の寺です。崖端の城館
          とみれば、武士の居館として十分ありうべき地形であるといえます。ただし、伝承もなく、
          とりたてて目立った遺構もないので、確信を抱くまでには至りません。
           一応、寺の西辺はわずかながら段差となっており、館の縁線を踏襲したものといえなく
          もないようには感じられます。
           眼下の中津川氾濫原には、今も水をたたえた田が数多く営まれており、この地を治める
          のには、好地であるとはいえると思われます。

           
 河岸下から清源院を見上げる。
清源院西辺のようす。 
城館の外縁をなぞったものか。 
 


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